(はたもとせぬまけしまつ てんぽうきょうふうき)
(うんのけんしろう)
[武家]
★★★★☆☆
♪帯に「時代小説界きっての業師が乾坤一擲の勝負に出た!」と時代小説評論家の縄田一男さんの言葉とともに、『この時代小説がすごい!』推薦!の文字があり、目に飛び込んできた。
『この時代小説がすごい!』は、同じ宝島社からの刊行ではあるが、文庫書き下ろし時代小説を真っ向から取り上げたガイドブックで、作品のセレクションには定評があるところ。海野謙四郎さんは、『異能の絵師爛水 花鎮めの里』(双葉文庫)でデビューした新進時代小説家である。
小石川の金剛寺坂を下り、江戸川にかかる中の橋を渡って牛込の新小川町に入ったところである。伝通院そばのさる旗本屋敷から市ヶ谷の高台にある自宅に向かう恭之介は、かれこれ七町(約七百六十メートル)ほどを駆けるように歩いてきた。
両側に武家屋敷の建ち並ぶ道をしばらく行き、二度角を曲がると、今度はなだらかな上り坂となる。右手に提灯を下げた恭之介は、左手で腰の両刀を掴んで速度をゆるめずに歩を進めた。
道が不規則に折れ曲がるところに出た。右側に筑土八幡宮と明神社へ登る石段がある。その下を通り過ぎて、神楽坂のなかほどに出るつもりである。この近辺には寺社が多く、武家屋敷の塀がとぎれて、辻番所の灯も見えない。
(『旗本瀬沼家始末 天保狂風記』P.9より)
物語の冒頭で、主人公で旗本の部屋住み瀬沼恭之介が、幼い女の子さきを百姓の男から託されるシーン。恭之介の歩みが切絵図に沿って的確に描かれていることで、当時から細い道が入り組んだ神楽坂の雰囲気が伝わってきて、この後、女の子を抱いて逃げる場面のサスペンスを盛り上げていく。
恭之介は国芳の家に向かう途次、先日の事件について数馬に語った。
「その百姓の父娘が追われているのに出会ったのは、筑土八幡の前か」
「はい、路地から飛び出してきました」
「揚場町の河岸のそばだな」
牛込揚場町の河岸は、神田川が江戸城の外堀とつながる場所にあり、舟で運ばれる物資の揚陸地である。
(『旗本瀬沼家始末 天保狂風記』P.38より)
何気なさそうな描写であるが、物語の伏線を押さえている。また、さりげなく江戸の町の地理を紹介している。作者は随所に江戸の町の風物など、物語を楽しむ上でのスパイスとなるようなウンチクを織り込んでいる。江戸ファンにはたまらないところ。
下野国黒金藩が疑われたのには、わけがあった。
同藩の宿老のなかには、藩主をないがしろにする者が多いと言われている。先代藩主は伊予の大名家からの養子であるが、重臣たちは養子縁組の際、持参金の一部を自分たちの懐に入れたという噂まであった。
(『旗本瀬沼家始末 天保狂風記』P.49より)
黒金藩は架空の藩だが、黒羽藩大関家をモデルにしている。実際に、Wikipediaで「大関増業」の項を見ると、下記のような記述があり、BINGOといったところ。
養父・増陽は28歳、それに対して養子の増業は31歳と、養父子の関係にありながら年齢差が逆であるという異例の養子縁組であった。その背景は、増陽が藩政改革に失敗して家臣団から責任を問われたことが挙げられるが、養子縁組の構想自体は藩士にはほとんど知らされることがなく、突然の決定であったという。このとき、黒羽の家臣団は養子に迎えるときに与えられる持参金(加藤家の)を互いに山分けしたとまで言われている。
(Wikipediaで「大関増業」の項より)
さて、物語には国芳のほか、国貞、渡辺崋山、椿椿山など、多くの絵師が登場するのも興味深い。
「先生を殺したのは、田原藩の守旧派だけではない」
数馬がこたえた。
「先生は藩の窮乏と日本の国の対外的危機という、ふたつの現実を見据えておられた。藩の現実を直視しない者たちと、日本の現実を直視しない者たち双方によって、先生は殺されたのだ」
「現実ですか」
恭之介がつぶやいた。〈現実〉は、崋山から教えられた言葉だった。(『旗本瀬沼家始末 天保狂風記』P.265より)
作中では、現実をレアリテイトというオランダ語の訳として紹介し、レアリテイトを求める態度をレアリスムといい、崋山は、絵画のレアリスムとともに、生きる姿勢としてのレアリスムを実践したと評している。なるほど、そう言われると田原藩の家老としての政治家の崋山と文人画家の崋山が一つに重なってくる。
恭之介は、自分に飛びかかってきた男に払い腰をかけた。あっけないほど簡単に技がきまり、男は道に叩きつけられた。
三人とも、武士としての鍛錬を欠かさない者の身のこなしではなかった。毎日、不満を抱えたまま大酒を飲んでいるのだろう。
「こいちらは威勢のよいことを声高に喚くだけで、現実を直視していない。幕府の最上層でも、こいつらと変わらぬことを繰り返している」
ほとんど息を乱すこともなく、数馬が言った。
(『旗本瀬沼家始末 天保狂風記』P.350より)
現在にも通用するような人としての生き方を問われているようにも思われる。
物語の冒頭(天保九年)では、恭之介は十五歳で前年に元服をしたばかりの初々しい少年だったが、多感な時期に、激動の天保時代を過ごすことで、しっかりした若者に成長していく。青春小説として、また、ビルドゥグスロマンとして本書を楽しむことができる。
ともかく、抜群に面白い文庫書き下ろし時代小説に出合うことができた。
主な登場人物◆
瀬沼恭之介:旗本の三男で部屋住み
瀬沼数馬:恭之介の次兄、家を出て絵師に弟子入り
瀬沼清之進:恭之介の長兄で、幕臣小普請組頭
雪乃:清之進の妻
瀬沼義克:恭之介らの父
須和:恭之介らの母
徳蔵:黒金藩領内の百姓
さき:徳蔵の娘
向坂荘次郎:旗本の次男、恭之介の友人
倖:池之端の茶商「宇治倖」の娘
多枝:瀬沼家の女中
加津:瀬沼家の女中
章助:瀬沼家の小者
八兵衛:道具屋筧堂の主
お峯:八兵衛の女房
甚吉:筧堂の手代
孝兵衛:筧堂の番頭
大島吉蔵:南町奉行所同心
歌川国芳:浮世絵師
芳茂:数馬の兄弟子
芳玉:数馬の兄弟子
せゐ:国芳の女房
梅屋鶴寿:狂歌師
歌川国貞:浮世絵師で、歌川豊国門下で国芳の兄弟子
渡辺崋山:田原藩家老、文人画家
羽倉外記:幕府の代官
江川太郎左衛門:韮山代官
川路聖謨:幕府勘定吟味役
高野長英:蘭学者で町医者
内田弥太郎:長英の弟子で軽格の幕臣
古賀涌庵:幕府の儒官
赤井東海:高松藩の儒者
椿椿山:崋山の絵の弟子
斎藤弥九郎善道:神道無念流の道場練兵館の主
井上伝兵衛:下谷車坂の道場主
高島秋帆:長崎の町年寄、砲術家
水野越前守忠邦:老中
遠山左衛門尉景元:北町奉行
鳥居耀蔵:幕府目付
本庄茂平次:耀蔵の手先
菱川重左衛門:黒金藩士
阿久津:黒金藩士
飛田半之丞:黒金藩前藩主原口展孝の用人
池田等兵衛:幕臣で清之進の元同僚
卯吉:小梅村の百姓
物語●夜道を自宅へと急ぐ旗本の三男坊で部屋住みの瀬沼恭之介は、神楽坂の裏道で、百姓の風体の男から、小さな女の子を預けられる。その直後、百姓は追っ手の男たちに捕まり殺された。恭之介は、その女の子・さきを市ヶ谷の高台にある屋敷に連れて帰った……。
さきは、結局瀬沼家で育てられることになる。さきの父徳蔵は、下野国黒金藩領内の百姓で藩ぐるみの悪事に絡んで殺されたらしい。恭之介は、浮世絵師歌川国芳に弟子入りしていた次兄の数馬と事件の真相を追い始めた。
やがて、さきが握る秘密は、妖怪と恐れられた鳥居耀蔵につながるもので、瀬沼家は大きな危難に巻き込まれていく……。。
目次■第一章 神楽坂の人斬り/第二章 レアリスムの絵師たち/第三章 梅雨と牢獄/第四章 アヘンと大砲/第五章 妖怪たちの始末