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今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話

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今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話
今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話

(きょうをきざむとけい かみゆいいさじとりものよわ)

宇江佐真理

(うえざまり)
[捕物]
★★★★☆☆

「髪結い伊三次捕物余話」シリーズの9作目だが、前作『我、言挙げす』から作品の中の時計は一挙に十年の歳月が進んでいる。三十二歳だった伊三次は一足飛びに四十二歳の厄年を迎えている。作者は十年の時間をワープした理由を「文庫のためのあとがき」で述べている。

 なぜ、こんなことをしたのかと申しますと、ひとつにはマンネリを打開したいという気持ちがあったことと、もうひとつは、どうしても伊三次シリーズの最終回を書き上げてから死にたいという私の思いがあったからです。それは数年前からずっと考え続けていたことです。
 
(『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』文庫のためのあとがき P.338より)

初めは伊三次とお文、不破友之進といなみの二組の夫婦を中心に展開していた物語に、二組の夫婦の子どもたちが成長していく過程が描かれていき、読者としてはマンネリな部分はさほど感じていなかったのだが…。

本書では、前作までに登場していない(まだ生まれていない)伊三次とお文の間の娘・お吉が登場する。この登場のさせ方が面白くて、一気に物語に引きこまれる。

「若旦那はもう二十七ですよ。奉行所のお仲間は皆、身を固めて、独り者は若旦那だけというじゃござんせんか。不破の旦那もそろそろ隠居をお考えになるお年だ。いつまで自堕落な暮らしをなさるおつもりですか。とくとわっちに話して下っし」
 お文はつっと膝を進めて言った。
「自堕落ですか……そうですか」
 龍之進は方から落ちた部屋着をするりと引き上げて独り言のように言った。色白に無精髭が伸びている。さっきまで寝ていたようで、こもった肌の匂いがした。
「お文さんにおれの気持ちはわかりませんよ」
 
(『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』P.25より)

前作では初々しい見習い同心だった不破龍之進も二十七歳に。定廻り同心を務める立場ながら、八丁堀の屋敷に帰らず、日本橋の芸妓屋に三日も四日も泊り込む自堕落な暮らしをしていた。

「人はね、変わるんですよ。手前ェが間違ったことをしたと思ったら、二度としないと肝に銘じ、以後、まっとうに生きて行けば、昔のことなんてチャラになりますよ。また、そう思わなければ生きては行けない」
 お文は自分に言い聞かせるように言った。
「おれのことも時が経てばチャラになりますか」
「チャラにしなければならないほどのことを若旦那はしておりませんよ」
 
(『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』P.77より)

生きることの意味を真剣に考えるのは龍之進ばかりでない。

「つまらねェ」
 伊与太は胸で呟いて、眼を閉じた。
 眼の裏には父親の笑った顔が甦る。明日も明後日も父親は仕事をする。そしてそれは息のやむまで続くのだ。伊与太は初めて父親に哀れなものを感じた。自分は少し大人になったのだろうか。その答えがわからないまま、今日という日が終わろうとしていた。
 
(『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』P.87より)

師匠の歌川豊光の「当世職人尽くし」の画集の「まはり髪結ひ」を眺め、父を思う伊与太もその一人。しみじみとした情感が伝わってくる。

 入れ墨は享保五年(一七二〇)、八代将軍徳川吉宗の時代に耳そぎ、鼻そぎに代わる刑罰して定められた。主に再犯者に科せられる。
 
(『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』P.154より)

ふーむ、なるほど。

「無理するんじゃないよ。無理して病にでもなったら目も当てられないからね」
「おっ母さん」
 下駄を履いて伊与太はお文を振り返った。
「今、おいらが無理をしてでもがんばらなかったらどうするんだよ。意地を強く持てと言ったかと思えば、今度は無理をするなだって? おっ母さんの理屈はおかしいよ」
「そうだったねえ。つまないことを言って堪忍しておくれな」
「全く……」
 伊与太は不満そうな顔で外に出た。お文は上がり框の傍でぽつんと座ったままだった。
 
(『今日を刻む時計 髪結い伊三次捕物余話』P.212より)

ここでもお互いの不器用なやり取りから、親子の情感が伝わってくる。

本書では、最近問題になっている若者の無差別殺人など、さまざまな事件を引き起こす若者たちが描かれていて、今を映す時代小説ともいえる。

文庫書き下ろしのように、作者のペースで次々と物語を生み出していくことが難しい、文芸誌連載スタイルの本シリーズにおいて、十年の歳月をワープした作者の試みは、物語に新味を加え、その世界を広げることで成功したように思う。

とはいえ、お気に入りのシリーズだけに、最終回を書くことを急ぎ過ぎないように、伏してお願いしたい。

主な登場人物
伊三次:髪結い
お文:伊三次の女房。芸者・文吉
お吉:伊三次とお文の娘
伊与太:お吉の兄。絵師に弟子入り
おふさ:伊三次の家の女中
十兵衛:髪結床「梅床」の主
お園:十兵衛の女房で、伊三次の姉
九兵衛:伊三次の弟子
安吉:伊三次の弟子
不破龍之進:北町奉行所定廻り同心
いなみ:龍之進の妻
茜:龍之進の妹
三保蔵:不破家の下男
松助:不破家の中間
おたつ:不破家の女中
おこう:芸妓屋「前田」のお内儀
小勘:「前田」に住み込みの芸者
翁屋八兵衛:箸屋「翁屋」の主
歌川豊光:伊与太の師匠
江草三之丞:あさり河岸の日川道場の道場主
笠戸松之丞:手習所の師匠
笠戸松太郎:松之丞の息子で、大名家のお抱え儒者
美江:松太郎の母
お鉄:刃物屋「阿波屋」の看板娘
橋口譲之進:北町奉行所定廻り同心
加江:譲之進の妻
榊原忠之:北町奉行
片岡監物:北町奉行所吟味方与力
古川喜六:北町奉行所吟味方同心
芳江:喜六の妻
うめ:喜六の義母
西尾左内:北町奉行所例繰方同心
春日多聞:北町奉行所年番方同心
緑川鉈五郎:北町奉行所臨時廻り同心
水澤春三郎:北町奉行所吟味方同心
笹岡小平太:北町奉行所見習い同心
笹岡清十郎:小平太の義父
徳江:小平太の姉
又次:室町の料理茶屋「瀧川」の追い回し(見習いの料理人)
千成屋甲子蔵:酒屋「千成」の主
おゆう:「千成」を手伝う娘
千吉:青物売りの若者
おりく:浪人者田中倉之助の妻
田中要蔵:おりくの息子
赤羽ひふみ:大名家御用人赤羽勝右衛門の娘
粂八:赤羽家の中間
矢口栄寿:八丁堀の医師
久助:瀬戸物屋の番頭
兼吉:は組の火消し人足

物語●
「今日を刻む時計」日本橋で若い男が町家の女房らしい女を人質にとって、出刃包丁を振り回して暴れていた。男の手前には数人が事切れて倒れていた。不破龍之進は男に立ち向かっていった…。

「秋雨の余韻」品川町の裏店に住む大工職人が建て前の祝儀を手にしたので、子供たちを寝かせた後に、女房と一緒になじみの居酒屋で酒を飲んでいた。長屋から火事が出て幼い三人の子供たちが煙を吸ってなくなったという…。

「過去という名のみぞれ雪」八丁堀の北島町の裏店で浪人の女房が幼い息子を道連れに無理心中を図ろうとした騒ぎがあった。隣家のかみさんが気づき、すんでのところで親子の命は助かったという…。

「春に候」前年の秋から江戸市中の寺で仏像や高価な仏具の盗難事件が起きていた。事件が寺社地内で起きていたために、町奉行所はすぐに探索に乗り出さなかった。しかし、寺社奉行所の悠長な探索に業を煮やした、寺の住持の訴えから北町奉行所が探索を始めることに…。

「てけてけ」見習い同心の一人、笹岡小平太は何かと問題を起こし、奉行所の悩みの種となっていた。龍之進は、指導係の春日多聞から、小平太が奉行所の役人としてふさわしいか、ふさわしくないか見極めるように頼まれた…。

「我らが胸の鼓動」八丁堀坂本町の町医者が瀬戸物屋の番頭に首を斬られて殺されるという事件が起きた…。

目次■今日を刻む時計|秋雨の余韻|過去という名のみぞれ雪|春に候|てけてけ|我らが胸の鼓動|文庫のためのあとがき

装画:安里英晴
デザイン:城井文平
時代:前作から十年後
場所:八丁堀玉圓寺傍、玉子屋新道、炭町、日本橋西河岸町、亀島町、佐内町、本材木町一丁目、三四の番屋、芝・愛宕下、小網町、人形町通り、北島町、大伝馬町、ほか
(文藝春秋・文春文庫・552円・2013/01/10第1刷・344P)
入手日:2013/07/01
読破日:2013/07/05

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