(れんれんさいさい うたがわひろしげえどきんこうはっけい)
(さかおかしん)
[市井]
★★★★☆☆
♪歌川広重の「江戸近郊八景」を舞台に、江戸の市井に生きる8組の男女の物語を描いた珠玉の短篇集。
――ごおん、ごおん。
本所横川町の時の鐘が、暮れ六つを報せた。
西の空は赤黒い。
群雲がちぎれるように流れてゆく。
頬を撫でる風は生温く、雨の気配は着実に近づいていた。
土手向こうの参道を行き交う人影は少ない。
杜は閑寂としたものだ。
まるで、時の狭間に置き忘れてしまわれたかのようだと、絵師はおもった。(『恋々彩々 歌川広重江戸近郊八景』「おしゅん 吾嬬社夜雨」P.13より)
叙情豊かな描写で、絵のような物語の世界に引き込まれていく。
歩駒の招牌がぶらさがった表口から踏みこんでみると、五平がそわそわした面持ちで待ちかまえており、格子越しに帳場のみえる六畳間へ通された。
(『恋々彩々 歌川広重江戸近郊八景』「おしち 小金井橋夕照」P.64より)
江戸時代、質屋の看板は店(敵陣)に入ると「金」になるというもじりから、将棋の駒をもじったものが多かったそうだ。こんなちょっとしたことが、とくに説明もなくすっと物語の中に織り込まれていた。
白い闇を彷徨いつづけ、もうずいぶんになる。
一刻半、いや、崖から落ちて意識を失っていたあいだも入れれば、二刻を超えているかもしれない。横殴りの吹雪にさらされながらも、手足の動くかぎりは歩きつづけようとしていた。右足をわずかに引きずっている。といっても、膝下は雪に埋もれ、腰で雪を漕いでいるかのようだ。
毛穴から噴きだす汗は肌着を濡らし、ひんやりとした布地は体から温かみを奪う。凍死したくなければ日暮れまでに、風雪をしのぐ小屋をみつけねばならぬ。まさか、毎年花見に訪れる飛鳥山でこんな目に遭おうとは、夢にもおもわなかった。
――かさなるや雪のある山只の山。
誰の発句か忘れたが、さきほどからずっと、その句が脳裏を駆けめぐっている。
(『恋々彩々 歌川広重江戸近郊八景』「おろく 飛鳥山暮雪」P.180より)
雪の描写の見事なリアリティーと、その場所が花見の名所飛鳥山というギャップが絶妙。
収録されたどの話も好ましいのだが、一番のお気に入りはこの「おろく 飛鳥山暮雪」。他の話とはトーンが大きく異なり、山小屋という閉ざされた空間を舞台に演じられる、一幕の舞台劇のようで面白かった。
弥生清明、大潮の潮干狩りを絵にしたいなら、芝浦まで足を運べばいい。
うららかな春の日差しを浴びながら、裾を端折って波打ち際に佇めば、想像を超えた何か抗いがたいものに搦めとられ、母の胎内のような奥深いところへ引きずりこまれてゆく快感を味わうことができるだろう。
(『恋々彩々 歌川広重江戸近郊八景』「おちよ 芝浦晴嵐」P.225より)
「今は何をお描きに」
「八景ものをね。版元は江戸近郊に新名所をつくりたいらしい。子の方角は飛鳥山、酉は石神井川に架かる小金井橋、午は羽根田の干潟、艮は北十間川から向こうの吾嬬社、さらに巽は行徳といった塩梅さ。芝浦はたしかによいところだが、日本橋から一里と少しで着いてしまう。はたして、それが近郊と言えるのかどうか」
(『恋々彩々 歌川広重江戸近郊八景』「おちよ 芝浦晴嵐」P.229より)
江戸近郊八景は、中国湖南省の洞庭湖および湘江から支流の瀟水にかけてみられる典型的な水の情景を集めて描いた「瀟湘八景図」になぞらえて、琵琶湖南部の風景の優れた名所を選んだ「近江八景」が元にあり、それを江戸に当てはめたものである。
同じような趣旨で、深川の美しい光景を切り取った「巽(辰巳)八景」がある。こちらは、山本一力さんが時代小説『辰巳八景』で取り上げている。
豊田は東海道五十三次の錦絵を気に入ってくれていて、時折、ぼそっと鋭い問いを投げかけてきた。
「おれはな、蒲原宿の雪景色を描いた絵が好きなんだが、ありゃおめえ、頭んなかで降らした雪だろう。でえち、沼津のさきだぜ。蜜柑山のある暖けえところだ。宿場がすっぽり雪に埋まることなんざ、富士山に誓ってもありゃしねえ」
そんなふうに文句を言い、ひとつひとつの錦絵を寸評する。
(『恋々彩々 歌川広重江戸近郊八景』「おふじ 池上晩鐘」P.273より)
読了後に、広重の「江戸近郊八景之内」の浮世絵を見たら、視覚的に物語の世界が目の前に現れて、面白さが増幅された。
主な登場人物◆
歌川広重:絵師
喜兵衛:版元「喜鶴堂」の主人
「おしゅん 吾嬬社夜雨」
大盃堂呑桝:狂歌師
定斎屋
掛茶屋の親爺
おしゅん:掛茶屋の娘
清太郎:勘当になった伊勢屋の若旦那
おとよ:岡場所の女
丈太郎:おとよの息子で、絹糸問屋に丁稚
老夫婦
「おしち 小金井橋夕照」
えびす屋五平:質屋の主
夕風:吉原・七文字屋の花魁
富次郎:太物商甲州屋の手代
豊治:三つ物売り(質流れの古着を解いて売る古着屋)
おしち:お針
富吉:おしちの息子
古着屋の主人
岡っ引き
茶屋の老婆
「おゆう 羽根田落雁」
おしげ:紅屋の娘
おゆう:女髪結い
惣右衛門:老舗筆墨屋梅鉢園の主人
惣介:梅鉢園の惣領息子
伝兵衛:摺り師
「おつや 行徳帰帆」
おつや:歌川豊国の娘
辻占の老婆
「おろく 飛鳥山暮雪」
佐平次:小男のこそ泥
おろく:山小屋の女主人
稲荷の又八:南八丁堀の岡っ引き
曾角:俳諧師くずれの枕探し
凡兆:芭蕉の弟子
吉松:兇状持ち
捨松:吉松の弟
「おちよ 芝浦晴嵐」
蘆屋孫六:日本橋通油町の書肆の主人
おちよ:孫六の元の女房
新吉:茶屋「一枚」の若い板前
酒屋の隠居
「おふじ 池上晩鐘」
おふじ:赤提灯の縄暖簾「あさひ屋」の女将
豊田新兵衛:町奉行所の定町廻り同心
綾乃:新兵衛の娘
団五郎:宮地芝居の人気役者
黒船町の辰吉:地廻りの親分
幸恵:新兵衛の別れた妻
「おまつ 玉川秋月」
石野忠左衛門:八王子千人同心の三男坊
まつ:忠左衛門の妻
横内源太夫:忍藩勘定吟味役
長谷部重四郎:忍藩横目付
物語●
「おしゅん 吾嬬社夜雨」
広重は、狂歌師大盃堂呑桝とその連の注文で、人知れず降る夜雨を描くために、吾嬬社の近くの掛茶屋で日没前から雨が降りだすのを待っていた。そこで、十五、六の娘おしゅんと勘当の身の若旦那の恋を目撃する…。
「おしち 小金井橋夕照」
広重は、馬事東風なる俳号をもつ質屋五平から、宴席で花魁が披露した色恋譚に出てきた錦絵が広重が若い頃に描いたものと知られて、二人の恋の真相を探るように依頼された…。
「おゆう 羽根田落雁」
広重は、牛天神近くの牛坂で、若くて裕福な商家の娘が般若のような形相で包丁を振り上げて、婀娜な女髪結いおゆうに向かっていくのを見かけた…。
「おつや 行徳帰帆」
広重は、湯治におもむいた那須湯元からの帰りに境河岸で、かつて心を奪われたことのあるおつやと再会した。おつやは、歌川豊国が駆け落ちした相手に生ませた子で、今は白河の達磨屋に後妻にはいっていた…。
「おろく 飛鳥山暮雪」
飛鳥山で吹雪に遭い遭難しかけた広重は、山小屋に迷い込む。その山小屋は、兇状持ちや盗賊が出入りする地獄宿で、口のきけない女主人おろくが小屋を守っていた…。
「おちよ 芝浦晴嵐」
広重は、十年来の友である書肆の主人蘆屋孫六と逢うべく、三田の魚籃観音堂を訪れた。孫六は別れた女房との復縁を望み、広重にある頼みごとをした…。
「おふじ 池上晩鐘」
広重は、版元から「煙寺晩鐘」の画題を与えられて、池上本門寺に頻繁に足を運んだ。寺の前の広小路から裏道に一歩踏みこんだ袋小路のどんつきに、縄暖簾「あさひ屋」があり、広重もすっかり顔になっていた。女将のおふじは愛くるしい笑顔で客の心を虜にし、酒も肴もいけた。その見世には定町廻り同心の豊田も常連で通っていた…。
「おまつ 玉川秋月」
広重は、甲州街道を西へ六里ほど進んだ府中のさき、玉川の岸辺で、密漁で落ち鮎獲りをしている鵜飼いを見かけた。鵜飼いに化けた男は侍で、八王子千人同心の三男坊で今は江戸に住んでいるという…。
目次■おしゅん 吾嬬社夜雨|おしち 小金井橋夕照|おゆう 羽根田落雁|おつや 行徳帰帆|おろく 飛鳥山暮雪|おちよ 芝浦晴嵐|おふじ 池上晩鐘|おまつ 玉川秋月