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己惚れの記

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己惚れの記
己惚れの記

(うぬぼれのき)

中路啓太

(なかじけいた)
[武家]
★★★★☆

著者の中路さんは、若き日の新井白石を独自の視点から描いた『火ノ児の剣 新井白石斬奸録』で第1回小説現代長編奨励賞を受賞。本書は、デビュー作の『火ノ児の剣』、「三木の干殺し」を題材に描く戦国小説『裏切り涼山』に続く、長編3作目。

本書の主人公は、老中首座水野越前守忠邦の家臣だった物集女蔵人。かつての武士の世界、幕府が本来あるべき姿を取り戻そうという忠邦の理想に共鳴して、同じ家臣で盟友の恩田六左衛門とともに、主君に誠心誠意、仕える日々を送っていた。

「殿は、目的のためならば汚れた手もいとわぬ冷厳な策士を演じておられるが、ご本心ではお主と同じ思いを抱かれている。私を離れて上に忠義をつくし、下々に憐愍を施す、そのような強く、正しく、しかも優しい武士本来の姿を蘇らせたいと真摯にお考えなのだ……だがいっぽうで、当世風に迎合するあまり、御みずからも、これまでの凡庸な野心家どもと同じ末路をたどってしまうのではないかとも恐れられておられる」

(『己惚れの記』P.33より)

しかし、忠邦の叔父の息子・水野主馬が商人を斬り殺してしまう事件が起こる。事実が明らかになれば、政敵から追い落とされて忠邦の理想が頓挫してしまうと思った蔵人は、主馬の罪をかぶり、新島に遠島になった。

その二年後、老中首座として政治の実権を握る忠邦は、十二代将軍家慶の名で発令された「上知令」を主導する。忠邦を補佐してきた六左衛門は腹を切らされる。蔵人の遠島の原因を作り、強権を握るために上知令の推進派の急先鋒をつとめる水野主馬。

決着をつけるために、蔵人は島抜け(脱島)をして、江戸に向かう。

「俺は見境をなくすほどに己惚れているのだ」
 人夫たちの暮らす長屋と長屋のあいだを縫うように駆けながら、蔵人はつぶやいた。
 忠義の道も武士の一分も、しょせんは己惚れにすぎないのではない。一見もっともらしい道理も、つきつめてゆけば霧のごとくたよりなく、空疎な本性をあらわにする。戦国の世にも主君の馬前で討ち死にした祖先も、ひどく思い上った。手のつけられない己惚れ屋にほかならなかったのだろう。

(『己惚れの記』P.211より)

タイトルにも入っている「己惚れ(うぬぼれ)」は、自分の信じた道を突き進まずにはいられない生き方を表現している。

 ではどのような政策に転換させればよいというのか。真の改革とは何なのか。そう自問してみても、蔵人には答えは出てこない。もともと俺は武辺一筋の男であり、政治家ではないと蔵人はみずからを嘲笑う。
 だが、今のままではいけない。改革はもっと熱い血の通ったものでなければならいのだ。もっと純なるものでなければならないのだ。もっと気高いものでなければならないのだ。蔵人にわかっているのはそれだけだったが、それだけで武辺者が刀を抜く理由として充分だった。
 ひとりの人間がやれることには限りがある。蔵人に課せられた役目は主君に改革の本旨を思いおこさせることがあったはずで、あとは忠邦の手腕に任せるしかない。自分がひとあばれしたあと、忠邦が実際に動揺した政権を建て直し、改革を成功させられるかどうかについては、もはや蔵人の思考の埒外のことがらであった。

(『己惚れの記』P.217より)

そんな主人公の己惚れの磁力に、魅せられた者たちがいる。

遠島処分を受けた父を恨む息子・豊太郎に、「己惚れられぬ者に、まことの忠など見つけられるものですか」「もう、お帰りなさい。そなたが、そなた自身の忠を見出すまで、立派に己惚れられるようになるまで、この根付は私が預かっておきます」と諭す、蔵人の妻・菊枝。

献残屋三河屋孫兵衛や、同心の木村伊織、与十郎、いや敵役の水野主馬すら、そうかもしれない。

「お前にはわからぬかもしれぬ。武士は負け様、死に様が肝心。殿に、立派な負けを飾らせてさしあげるのが臣の務めである。この俺が武士らしく見事に斬り死にすることによって、畏くも殿をお諫め申し上げねばならぬ」

(『己惚れの記』P.357より)

結末まで一気呵成に読ませる、作者の筆力が凄い。蔵人の武士らしい武士ぶりがなんとも爽快で、胸を熱くさせる、傑作。

主な登場人物
物集女蔵人:元水野家藩士で公用人
水野越前守忠邦:浜松藩主で老中首座
水野主馬:忠邦の叔父の子
恩田六左衛門:水野家藩士で用人、蔵人の盟友
平右衛門:島役人前田長門正の家人
亀次:前田家の下男
申吉:上総勝浦の漁夫出身の流人
与十郎:流人でやくざ者
しず:新島の水汲み女
又五郎:流人頭
菊枝:蔵人の妻
小弥太:物集女家の中間
豊太郎:蔵人の倅
とき:物集女家の婢
坂上又右衛門:水野家藩士
三次:又右衛門に仕える中間
木村伊織:南町奉行所同心
姉小路:大奥の上臈御年寄
伊東宗益:奥医師
土井大炊頭利位:老中
鷹見十郎左衛門:土井家家老
孫兵衛:神田小柳町の献残屋、三河屋の主
鳥居甲斐守忠耀:南町奉行
甚五郎:博奕打ちの親分
安:甚五郎の妾
乙吉:与十郎の弟分
竹内八郎右衛門:羽州酒井家の中老
正木帯刀:土井家の家臣で、練兵館の高足
家慶:十二代将軍
新見伊賀守正未路:御側御用取次
中山肥後守:中奥小姓
拝郷縫殿:水野家家老
又七:秋月黒田家の雇われ人夫を逃げ出した若者
黒田彦十郎:水野家藩士
次郎八:水野家中間

物語●
二年前の天保十二年、老中首座水野忠邦の家臣・物集女蔵人(もずめくらんど)は、同じ藩士の身代わりとなって遠島刑を受け、江戸から海をへだてて四十里の新島に流されていた。

江戸では、江戸大坂の十里四方に入り組んだ私領(大名領・旗本領)をすべて幕府直轄領とする命令、いわゆる「上知令」が発令され、主君の水野忠邦が強力に改革を推進していた。その中で、これまで誠心誠意、忠邦を補佐しながら、上知令を発令することに反対の恩田六左衛門が腹を切らされたことを、蔵人は「孫」と名乗るものからの手紙で知る。

蔵人は、雷斬りの与十郎というやくざ者に誘われて、元漁師の流人三人とともに漁船を盗んで、島抜けをすることに…。

目次■序章 流人の島/第一章 改革前夜/第二章 島抜け/第三章 謀士ども/第四章 印旛沼/第五章 泥濘の死闘/第六章 暗躍/第七章 敗北/第八章 金箱/第九章 行人坂/終章 江戸の夜 解説 細谷正充

カバーイラスト:星野勝之
カバーデザイン:坂野公一(welle design)
解説:細谷正充
時代:天保十四年(1843)
場所:新島、西ノ丸下水野邸、柳橋、本所、江戸城大奥、神田小柳町、南町奉行所、三十間堀、大和田宿、千葉郡花島村、表二番町、麹町八丁目、八丁堀、不忍池のほとりの永昌寺、目黒行人坂、太鼓橋、ほか
(講談社・講談社文庫・695円・2012/09/14第1刷・410P)
入手日:2013/01/12
読破日:2013/06/14

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