(まるがりーた)
(むらきらん)
[歴史]
★★★★☆☆
♪平成二十二年、第十七回松本清張賞受賞作。天正遣欧少年使節のことは、教科書に記載されて、日本人にとって常識にもなっている。しかし、帰国後のことにはこれまであまり触れられてこなかったように思う。
たしかにみげるは少年使節に選ばれて南蛮へ渡り、ざびえる司祭の流れをくむ耶蘇会で修道士になりましたが、帰って十数年のうちに棄教したのでございます。しかも当節の切支丹のように、拷問を受けて転んだというのではありませぬ。みげるは誰に強いられるでもなく棄教いたし、己で天主教の下から離れたのでございます。南蛮へ渡った四人の使節のうち、棄教したのはみげるただ一人。あとの三人は司祭になりおおせ、殉教さえ成し遂げたのに、ですぞ。
(『マルガリータ』P.10より)
物語を読んで、使節の一人、千々石(ちぢわ)ミゲルが棄教したことを初めて知った。ローマまで渡り、多くの人たちに歓迎された、切支丹のエリート的存在のはずが……。そこには、歴史小説にしか書けないドラマがあった。
「のう、みげる。四人みなとは言わぬ。そなただけでよいのじゃ、天主教を棄ててくれぬか」
刹那、大きく目を見開いて、ミゲルはただぼんやりと秀吉を見返した。よりにもよって南蛮を訪れた使節が棄教とは、ありえないことではないか。
(『マルガリータ』P.40より)
人たらしで、こういう悪魔的な囁きをする秀吉が好きだ。トリックスター的に物語の興趣を掻き立てる。
「私のほうこそ、たまが居てくれると天主様のお姿を見ることができるようだ」
つまらぬ物思いなどやめよう、とミゲルは両手をあげて大きく伸びをした。
「そうだ、たま。ずっとお前に教えてやろうと思っていたのだ。真珠のことを南蛮で何と言うと思う」
(『マルガリータ』P.48より)
タイトルになっている「マルガリータ」は、真珠の意味であると同時に、南蛮で女子に付ける名である。南蛮帰りのミゲルは、ミゲルを恋い慕うたまに、その名をもつ修道女もたくさんいることも説明している。そして、たまの名も漢字で書けば、「珠」の字になることを教える。
おさきが死んだり、みげるが杖をつくようになったり、いやな噂を聞いたりしたときは、たまは唐紙をぴっちり閉めて、真っ暗い板間に幾日も膝をかかえて座っていたいと思う。だけどそれは天主様がお許しにならない。たまはひとりでに唐紙を開けて、お天道様を浴びに外へ出る。だってたまは、まるただったから。天主の子のそばで懸命に働く女子だと、みげるが褒めてくれたから。
(『マルガリータ』P.77より)
天主の子が皆に説法を始めたとき、まるたという女子は皆の夕餉を調えるのに忙しく働いた。そのとき妹のまりあは姉の手伝いもせずに、じっと天主の子のそばに座って説法聞いていた。
たまをまるたに例えると、もう一人のヒロインは伊奈姫はまりあといったところ。
「天草の小西行長は関ヶ原で首を斬られ、後には唐津の寺沢家が入った。この大村の北には、龍造寺に取って代わった鍋島家がおる。島原を治める有馬家の向かいは熊本であろう。われらとしては清正公とよしみを通じるしかあるまい」
(『マルガリータ』P.117より)
天正遣欧使節の話を考えるとき、これが戦国時代の出来事であることを忘れてはならない。切支丹大名たちは、宗教をどのように政に取り入れ、また、政と教を使い分けたかを理解していくことが、この時代を正しくとらえる一つの方法だろう。
「このところ清左衛門殿はお城に登られぬゆえご存知なかろうが、あの晴信公の沙汰には直純公が一枚噛んでおられると申しますぞ」
直純公自らが家康公に、晴信公への厳しい処断をのぞんだというのである。そこには切支丹を蛇のように嫌う新しい奥方、国姫の入れ知恵があったともいう。
(『マルガリータ』P.209より)
有馬晴信が巻き込まれた、岡本大八(本多正純の家臣)事件も、徳川家のキリシタン禁止令に大きな影響を与えている。
「ああ、大丈夫だとも。私たちはいつも四人だ。四人なら、どんなことも堪えられる。私たちは南蛮に行ったのだから」
清左衛門はゆっくりと畦を歩きはじめた。
(『マルガリータ』P.221より)
本書は、千々石ミゲル清左衛門の壮絶な生涯を描く歴史小説であるとともに、使節の四人の友情の物語であり、ミゲルを一途に慕い続けるたまの愛の物語である。また、天正遣欧少年使節から天草四郎による島原の乱へ、戦国時代から江戸初期にかけての九州におけるキリシタンの歴史がよくわかる。
信仰と政、名誉と命、ともすれば真面目に重苦しい作品になりがちな重いテーマを扱いながらも、全編、微笑ましくそして爽やかに描き切った傑作歴史時代小説。
主な登場人物◆
千々石清左衛門:天正遣欧少年使節の一人、千々石ミゲル
中浦ジュリアン:天正遣欧少年使節の一人
原マルチノ:天正遣欧少年使節の一人
伊東マンショ:天正遣欧少年使節の一人
珠:清左衛門の妻
大村喜前:大村純忠の嫡男で、大村の領主
伊奈姫:喜前の姉で、熱心な切支丹で洗礼名はまりた
朝長大学頭純盛:大村家の重臣で琴海の領主。伊奈姫の夫
大村彦右衛門:大村家の家老
有馬晴信:島原の領主で、清左衛門の従兄弟
牧野隼人正:有馬家の譜代の家臣
物語●
天正十年、肥前国大村藩主の大村純忠と島原日野江藩主の有馬晴信、豊後国の大友宗麟によって、南蛮国へ四人の少年が使節として派遣された。正使に任じられたのが十三歳の伊東マンショと千々石ミゲル、副使として十一歳の原マルチノと十四歳の中浦ジュリアンだった。
八年が経ち、四人は南蛮船で帰国した。その間、織田信長から豊臣秀吉に天下人は代わり、天主教は禁じられ、宣教師たちはすべて追放され、長崎は没収されていた。その秀吉によって、少年使節の四人は、京の聚楽第に招かれる。そこで、ミゲルは秀吉から棄教を迫られる……。
目次■序/第一章 再会/第二章 新たな地/第三章 流れる/第四章 落日/結/解説 縄田一男