(ふださしいちさぶろうのにょうぼう)
(ちのたかし)
[市井]
★★★★☆☆
♪千野さんの作品は地味な印象があるが、その面白さは折り紙付きで、玄人好みなところがある。札差を描いたものでは、南原幹雄さんや山本一力さんらの作品が思い浮かび、期待できる舞台背景の一つだ。
十六年前の寛政元年、老中松平定信によって発せられた、「棄捐令」が、物語の背景にあり、札差を中心とした金融小説という側面がある。「棄捐令」は、知行地(領地)を持たずに、米(蔵米)で俸禄を受け取っている、下級旗本・御家人の貸付金を棒引きにするというもの。それまで、あこぎに儲け過ぎ、十八大通(じゅうはちだいつう)などと呼ばれて、金を湯水のように使い、いい気になっていた者が目をつけられ、六年以前までの貸付金はすべて帳消し、五年以内の分は、三分の一に下げて、永年賦とされた。その結果、百二十万両におよぶ被害を受け、多くの札差が多くの負債を抱えて、店を畳むものが多数出た。そして、札差の札旦那(旗本・御家人)への貸し渋りが始まり、金に振り回される武家の惰弱・腐敗ぶりが進行していく。
この作品が見事なのは、時代がしっかり描かれていること以上に、身分の隔たりや社会観の違いを超えた武家の娘・綾乃と誠実に札差業に取り組む市三郎の愛が情感豊かに描かれていることにある。
また、追われる綾乃を助けて保護する市三郎と、江戸城の御留守居役を務める権力者である坂東志摩守の対決ぶりがスリリングである。この坂東志摩守という強力な敵役を配したことが傑作エンターテインメント時代小説にしている。
物語●綾乃は、百二十俵の蔵米取り、小普請組の御家人・園田軍兵衞の娘だったが、一年前に器量を気に入られて、実家への金銭的な援助を条件に、大身旗本坂東志摩守の側室になった。一刀流中西道場の免許皆伝を得た剣術の達者だったが、金と役職に縁のないまま二年前になくなり、家督を継いだ弟は、四月前に、大身旗本の若殿に絡まれた末に斬殺され、園田家は断絶した。綾乃は、金で買われた側室として、坂東志摩守から一年の間に、幾多の屈辱と狼藉・乱暴を加えられてきた。雪の降るある夜、意を決して屋敷を抜けだした。坂東の手下から追われている途中、偶然助けてくれたのが、札差の上総屋市三郎だった。
しかし、綾乃は札差を子どもの頃から天敵のごとく憎んで、過してきた。坂東志摩守の屋敷に側室に入らなければなくなった羽目に陥ってしまったのも、母が労咳で倒れ、札差から高利の金を貸し付けられたことに起因する。よりによって、その札差の家の者に助けられるとは、何という皮肉か…。
目次■第一章 札旦那/第二章 月踊り/第三章 御蔵蜆/第四章 轍のゆくえ/第五章 夜の潮/解説 結城信孝