(しろかしのきのしたで)
(あおやまぶんぺい)
[青春]
★★★★☆
♪
2011年第18回松本清張賞受賞作。
本所南割下水で生まれ育った貧乏御家人の村上登は、同じ境遇の道場仲間たちと希望のない鬱屈した日々を送っていたが、あるとき、一振りの刀を手にしたことから、物語は大きく動きだす。
もしも自分が一竿子忠綱を持ち込まなければ……佐和山道場を背にして歩みを進めながら村上登は思う……いまも三人はいつも変わらずに稽古に打ち込んでいるだろう。
兵輔は、形稽古に飽き飽きしたなどと喚かず、昇平は実は逃げようとしたのだと告白したりせず、気持ちのよい汗をかいているはずだ。
ふだんはそこにない。たった一口(ひとふり)の刀があるだけで、見えなかった蓋が開き、見えなかったものが噴き出る。(『白樫の樹の下で』P.60より)
父は一度も出仕の経験がなく、物心ついたときから父がお役目に向かう姿を目にしたことがない。父母には武士のことして厳しく躾けられたものの、周りの家もことごとく小普請組であり、武士の何たるかをからだで知る機会は竹刀や木刀を振るくらいしかなかった。
十代で自分が武士であることに確証を持てなくなり、五年前の事件を期に、竹光を差し通している登。十三歳で父を不名誉な形で亡くした逆境にも屈せず、倦まず、常に物事と柔らかく正対する昇平。提灯貼りと剣術の毎日に倦み、南割下水から抜け出すことを考える兵輔。三者三様の青春模様を描く。。
「一竿子忠綱でございます」
「いっかんし……」
「世直し大明神でございますよ」
「ああ」
四年前の天明四年三月、江戸城内で起きてはならない事件が起きた。(『白樫の樹の下で』P.40より)
物語の四年前、天明四年に若年寄の田沼山城守意知が旗本佐野政言に城中で斬られるという事件が起こった。老中田沼意次の息子を死に至らしめたことから、世間は政言を世直し大明神やら佐野大明神やらと褒めそやした。政言が用いた脇差を鍛えた刀匠が一竿子忠綱で、事件以来人気は沸騰していた。
「直心影流の長沼国郷様が正徳年間に面籠手を工夫されたのに続いて、中西派一刀流二代宗家、中西子武様によって胸当てが編み出されたのはいまから二十五年ほど前の宝暦十三年と聞いております」
(略)
「そのお陰で、いまの道場の繁盛があるのだろう」
昨今、竹刀打ちの道場はおしなべて門弟の数を増している。
「おっしゃるとおりで。手前ども町人が商いの傍ら稽古を積ませていただけるのも竹刀打ちの掛かり稽古なればこそなのですが、同時に竹刀打ちは道場破りという招かざる相手を呼び寄せることになりました。(略)」(『白樫の樹の下で』P.8より)
登が門弟となっている佐和山道場の不釈流では、防具と竹刀を遠ざけ、ずっしりと重い木刀による昔ながらの形稽古を貫いていた。真剣勝負に等しい稽古で精進していることから、錬尚館で道場破り対応要員として要請されるのである。
本書は、青春時代小説としてだけでなく、迫力あるチャンバラシーンが楽しめる剣豪小説でもあり、辻斬りの下手人探しのミステリーでもある。また、田沼時代に大川の三ツ俣の中洲に埋め立てでできた島・中洲新地が登場するところも興味深い。
「帰りにどこぞに寄られますか」
そんな登の心の内が見えているかのように、見送りに出た巳之介が言った。
「そうだな」
そうかといって、特段足を向ける場所もないのだが、と思っていた登の脳裏に、ふっとある町の名のが浮かぶ。
「せっかく大川を越えたのだから、道すがら中洲の新地でも見物して戻ることにしてみよう」(『白樫の樹の下で』P.17より)
ジャンルを問わぬ良質の長篇エンターテインメント小説を対象とする、松本清張受賞作には、すぐれた時代小説が多く、この「白樫の樹の下で」もこの賞を代表する受賞作品の一つ。次回作が楽しみ。
◎過去の松本清張賞
第20回 山口 恵以子 「月下上海」
第19回 阿部 智里 「烏に単は似合わない」
第18回 青山文平 「白樫の樹の下で」★
第17回 村木 嵐 「マルガリータ」★
第16回 牧村一人 「アダマースの饗宴」
第15回 梶よう子 「一朝の夢」★
第14回 葉室麟 「銀漢の賦」★
第13回 広川純 「一応の推定」
第12回 城野隆 「一枚摺屋」★
第11回 山本兼一 「火天の城」★
第10回 岩井三四二 「月ノ浦惣庄公事置書」★
第9回 山本音也 「ひとは化けもん われも化けもん」★
第8回 三咲光郎 「群蝶の空」
第7回 明野照葉 「輪(RINKAI)廻」
第6回 島村匠 「芳年冥府彷徨」★
第5回 横山秀夫 「陰の季節」
第4回 村雨貞郎 「マリ子の肖像」
第3回 森福都 「長安牡丹花異聞」★
第2回 (該当作なし)
第1回 葉治英哉「(またぎ)物見隊顛末」★
(「烏に単は似合わない」は平安調の時代ファンタジー、「月下上海」は第二次大戦下の上海を舞台にしていて、時代小説と呼んでもよいかも。)
主な登場人物◆
村上登:不釈流の佐和山道場の師範代。三十俵二人扶持の小普請組
村上弘道:登の父
巳乃介:日本橋堀江町の蝋燭問屋の次男坊
寺島隆光:富沢町の剣術道場錬尚館館主
仁志兵輔:登の佐和山道場の朋輩
青木昇平:登の佐和山道場の朋輩。御入用橋等出水之節見廻役の下役を務める
佳絵:兵輔の妹
朋世:登の姉
前原佐内:徒目付
渋江長伯:医師
物語●
天明八年、賄賂の噂に塗れた田沼意次に代わって、清廉で知られる白河藩藩主、松平定信が老中になり、幕府の政策が変わろうとした頃。
深川常盤町の佐和山道場の代稽古を務める御家人の村上登に、富沢町の錬尚館から助太刀を依頼され、道場破りを撃退することに。相手は、通常より一尺余りも長い四尺五寸の竹刀を竹刀を持ち込んでいた。
道場破りとの対応の後、登は錬尚館の門弟で、蝋燭問屋の次男坊、巳之介から、一口(ひとふり)の刀、一竿子忠綱を託された。
翌朝、佐和山道場で、共に代稽古を務める仁志兵輔と青木昇平の二人に、いつもの竹光ではないことを早々に見破られてしまう。三人は同じ南割下水の小普請組の家に生まれ育った朋輩。
同じころ、江戸の町では立て続けに辻斬りが起きていた。下手人は、相当な遣い手ながら斬殺の仕方が尋常ではなく、遺体を据え物の試し斬りのように幾度も幾度も刀を振るっていた……。
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