『黄金舞踏 俳優・山川浦路の青春』|大橋崇行|潮文庫
昔、学生の頃に映画史の授業が好きでした。そのとき、無声映画「バグダッドの盗賊」でモンゴルの王子役を演じた、日本人俳優、上山草人(かみやまそうじん)のことを知りました。怪しい東洋人のポートレート写真は一度見ると忘れられません。
本書の主人公、山川浦路(やまかわうらじ)は、草人の奥さんだった人で、二人でアメリカに渡り、端役でハリウッド映画にも出たことがあるとのこと。
大橋崇行(おおはしたかゆき)さんの文庫書き下ろし小説、『黄金舞踏 俳優・山川浦路の青春』(潮文庫)は、明治から昭和にかけて波瀾万丈の生涯を送った一人の女性の物語です。
著者は、2020年に『遥かに届くきみの聲』で双葉文庫ルーキー大賞を受賞してデビューし、『小説牡丹灯籠』(柳家喬太郎監修)、『週末は、おくのほそ道。』(双葉文庫)などの著作があり、新進気鋭の作家の一人。
1947年、日系二世の野正琴は、戦時中に強制収容所で知り合った老女に会うためロサンゼルスを訪れていた。彼女の名は三田千枝。かつてハリウッドで活躍した俳優で、琴はいつかその頃の話を聞かせてほしいと頼んでいたのだ。千枝が語り出したのは、日本での輝かしい日々のこと、そして――。日本の近代演劇草創期に活躍した一人の女性の波瀾万丈の人生を描く、渾身の歴史小説!
(『黄金舞踏 俳優・山川浦路の青春』カバー裏の内容紹介より)
三田千枝の語った話は、十七歳だった華族女学校高等中学科の頃から始まりました。
千枝は英語が得意で、とても真面目な生徒でしたが、ときどき、その日と同じように退屈の虫が現れてぼんやりとしていることもありました。
後年首相となる犬養毅の娘、操は千枝の親友で、授業中もたびたび会話をしました。
「操さんのお家に、四月から素敵な殿方がいらっしゃるっていうじゃない」
「ああ…」
あの男のことかと、操は誤魔化すように頬を掻いた。
「なんでも、操さんの許婚になるっていう噂だけれど」
「千枝さん、あなたわかっていて揶揄っているでしょう?」
「あら、わかる?」千枝が悪戯っぽく笑って続けた。「でも、早稲田に入学してすぐに自分たちで庭球部を立ち上げるなって、ちょっと面白そうじゃない」(『黄金舞踏 俳優・山川浦路の青春』P.33より)
退屈の虫を抱えているときの千枝は、ときどきこうして好奇心に駆り立てられます。何としてでもそれを満たそうと、ブレーキが壊れた車みたいに暴走してしまうことも少なくありません。
仙台で生まれた上山貞(かみやまただし。後の草人)は、父同士が知り合いということから、早稲田にある犬養家に寄宿していました。
千枝は、犬養家の自宅にあるテニスコートで、貞に出会い、面白い人だと気になりました。
「私は正直者だと言われるけれど、ふつうの正直者ではないの。自分の欲望に対して正直なのよ。真面目に生きていたほうが自分の欲望を叶えられるのならそうするし、面白おかしく振る舞ったほうが良いときにはそうすr。それだけのことだと思うの」
貞の言葉に、千枝は当たり前のように淡々と返事をした。
「だったらなおのこと、僕と一緒にいたほうが面白いんじゃないかな」(『黄金舞踏 俳優・山川浦路の青春』P.50より)
早稲田で庭球部を作り、陸上で活躍し、学外では舞台の稽古をし、最近では絵の勉強を始めているという、自分のやりたことに次々と手を出し、好きなように生きている貞と、千枝はやがて恋に落ちました。
貞から、本郷座でやる芝居『金色夜叉』で初めて役をもらったから、ぜひ見に来てくれないかと誘われます……。
金色の夜叉を演じる貞は、激しい音楽に合わせて踊り、黄金の舞踏で、抱えていた憤怒を前身で表現しました。
そんな貞の姿に引き付けられ、貞の最大の理解者となるなる千枝。役者になれば、退屈の虫も収まるだろうと貞から言われ、俳優を目指していきます。
明治末期、草創期の日本の近代演劇の状況が活写されていて、物語に引き込まれていきます。
とくに前沢正子(後の松井須磨子)とのライバル関係や両者の個性が対比されて面白く本書の読みどころの一つとなっています。
松井須磨子と島村抱月を描き同時代を描いた、志川節子さんの『アンサンブル』もおすすめです。
イプセンの戯曲『ヘッダ・ガーブレル』やゲーテの『ファウスト』を上演するまでの人間ドラマは、波瀾万丈で、まるでNHKの朝のドラマのよう。
坪内逍遥、森鴎外、乃木希典、谷崎潤一郎ら当時の著名人も登場して、興趣がつきない、日本の近代演劇草創の歴史が堪能できました。
「私はあの人のおかげで、少なくとも退屈でいることはなくなった。そのことにだけは、感謝している」という、千枝の言葉。貞(上山草人)との関係は、お互いが相手の存在を必要と認める素敵なパートナーシップに胸が熱くなりました。
黄金舞踏 俳優・山川浦路の青春
大橋崇行
潮出版社 潮文庫
2024年1月20日初版発行
装画:生田目和剛
カバーデザイン:金田一亜弥
●目次
序章 リトルトーキョー
第一章 金色夜叉
第二章 文芸協会
第三章 ハムレット
第四章 ヘッダ・ガーブレル
第五章 ファウスト
終章 リトルトーキョー、再び
解説 浦路が切り開いた道 北村浩子
本文302ページ
文庫書き下ろし
■今回取り上げた本