『侠(きゃん)』|松下隆一|講談社
松下隆一(まつしたりゅういち)さんの時代小説、『侠(きゃん)』(講談社)紹介します。
著者は、NHK-BSで放送された時代劇「雲霧仁左衛門3~5」(2017年~2022年放送)の脚本を担当した脚本家。
同シリーズでは、文庫書き下ろし時代小説で大活躍の岡本さとるさんも脚本を担当されていました。
著者は、2019年に「もう森へは行かない」で第1回京都文学賞を受賞し、2020年に同作を改題した単行本『羅城門に啼く』を刊行し、時代小説デビューを果たしています。
タイトルの「侠」は「きゃん」と読み、勇み肌でいきなさま。また、そのような人の意味、と本書のカバーに記載されています。
元は名うての博奕打ち、今は江戸は本所でさびれた蕎麦屋を営む銀平を、不治の病が襲った。死を前に、残された時間をいかに生きるべきか問い続ける銀平のもとへ、かつての自分を彷彿とさせる青年・清太が転がり込んだ。銀平は、清太や店を訪れる客らとの交流に、次第に残り僅かな人生を前向きにとらえるようになっていく。だが、再会を果たした元妻を襲った悲劇、さらに信頼していた清太の裏切りが、銀平の生きる気力を奪ってしまう。そして、逃れられない過去の因業が忍び寄り……。
(『侠(きゃん)』カバー帯の紹介文より)
南本所の一ツ目之橋のたもとで蕎麦屋を営んでいる銀平は、半年ほど前からたびたび胸が焼け、苦いおくびが出て、腹痛が起きていました。そして、その日初めて吐血し、死を覚悟しました。
六十歳の銀平の蕎麦屋は、蕎麦と酒を出し、客が五、六人も入れば満席となる小さな店で、蕎麦をつくるのは多くても日に二十杯と決めていました。
しかも、普通の蕎麦屋なら安くても一杯十六文はとるところを十文で売っていて、もとより儲けるつもりはなく、自分一人が食べていければよいと考えています。
店に来る常連は、同心から年齢ゆえにお役御免を言い渡されそうだと愚痴る五十男の小者勘次、二十半ばの年増の夜鷹おケイや、ボロをまとった物乞いの父と男の子など。
どん底の生活から這い上がりたいと考えながらも、思うようにはいかない人たちばかり。
銀平の作る古里の腰のない蕎麦に、懐かしさや気持ちが休まるひとときが得られることを楽しみにしていました。
銀平は根っからの博奕打ちで若いころはやくざ同然の暮らしを送っていて、十七、八年前までは世話になった親分のために、“八州博奕”で大金を稼いだこともありましたが、今はすっぱりと足を洗い、蕎麦屋を営んでいます。
「どうも。お久しぶり」
と、女は言った。
声の調子はいくらか低くなっていたが、あの女のものに間違いなかった。声は顔ほど変わらないものだと思った。
「そうさな……何年ぶりになるかな」
「さあ、どうでしょう……百年にはならないと思うけど」
その戯言を真に受けそうな自分がいる。
(『侠(きゃん)』 P.32より)
ある日、銀平の蕎麦屋に、別れた女房のおようが久しぶりにやってきました。
おようは銀平と夫婦になって五年後、若い小間物売りの行商と懇ろになり、一緒に逃げたのでした。
それにしても、どうして今?
おようとの過去が切れ切れに思い浮かんでは消えていきましたが、それは意外なほど嫌なものではなく、逆に温かくも感じられました。
その夜、大きな石でもぶつけられたように障子戸が鳴りました。銀平が戸を開けると、そこには若い町人の男が倒れていました。
履物を履いていない、誰かに追われているかもしれない男の家の中に入れました。
「にいさん、大丈夫ですよ。もうここまでは追って来ねえでしょう。起きておくんさない」
男は薄らと目を開けて銀平を見た。その目の色に荒んだものを感じる。
「その懐の銭はどうしなすったんです?」(『侠(きゃん)』 P.40より)
若い男、清太は、賭場の銭を盗すんで逃げてきたのでした。
賭場荒らしをした清太に若いころの自分を見る思いがした銀平は、清太に蕎麦を振る舞い、貸し元に銭を返しにいくよう諭して、その夜は清太を匿って泊めることに。
淡々と死期を迎えるはずだった銀平が、元女房おようとの再会、清太との出会い、常連客との交流を通じて、前向きに生きることを感が始めます。ところが、……。
元博奕打ちだった銀平が、人の為に再び人生最期の大博奕に挑むシーンが圧巻です。
一筋縄ではいかない、サイコロ博奕のような人生の流転が描かれていきます。
銀平と登場人物たちとのやり取りが、巧みに構成された良質な一幕の芝居のように濃密な空間に誘い、心を揺さぶられました。
面白い時代小説に出合いました。
侠(きゃん)
松下隆一
講談社
2023年2月20日第1刷発行
装幀:芦澤泰偉
装画:大竹彩奈
●目次
第一章 桜草
第二章 貝殻餅
第三章 空蝉
第四章 夜鷹と小者
第五章 命か銭か
第六章 願わくば
本文236ページ
初出:「小説現代」2023年1・2月合併号
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『侠(きゃん)』(松下隆一・講談社)