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『しん』に新しい働き手が。明日への勇気を与える時代小説

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形見 名残の飯伊多波碧(いたばみどり)さんの文庫書き下ろし時代小説、『形見 名残の飯』(光文社文庫)を紹介します。

母娘が営む、隅田川縁の橋場の渡し近くの一膳飯屋を舞台に、その店に集う者たちの人間模様を描いた、一話完結の連作形式の人情市井小説シリーズの第三弾です。
本書では、濃密な人情にどっぷり浸れます。

隅田川縁の「橋場の渡し」近くにある一膳飯屋『しん』。母娘が営むこの店には今日も訳ありな客たちが訪れる。才能を嫉妬され夫に子育てや家事を詰られる女職人、亡き妻の不貞を疑う酒問屋の隠居、借金苦のために愛犬を処分した男……。そして今巻では、『しん』に新しい働き手が加わる。だが、その人物のせいで店は大騒動に巻き込まれる――。好評の時代シリーズ、飛躍の第三弾。

(本書カバー裏の紹介文より)

女将のおしげと若女将のおけいの母娘と、舌が良い老料理人の平吉の三人で切り盛りしている一膳飯屋の『しん』。

「柔らかいのと硬いの、どちらがお好きですか」
お客さんに合わせてお好みの加減でご飯を炊くのも『しん』の流儀です。

第一話「山鳩」。
おすみは十八で嫁に行くまで、寄木細工の職人をしていました。
欄間職人の周吉との間に三つになる娘のおしゅんがいて、家事と育児に追われるおすみに、寄木細工の親方から声がかかり、四年ぶりに仕事にもどることなりました。

仕事場から昼飯のため家に帰る途中、連れていた娘のおしゅんが渡し舟に乗りたいと駄々をこねました。

「医者に行ったほうがいいな」
 昼餉を食べずに待っていた周吉は、帰りが遅くなった事情をおすみから訊き出すと、腕組みをして面倒なことを言い出した。
「道で転んだんだろう、頭でも打ってるかもしれねえ」
「お医者なんて。ほんの尻餅ですよ」
 
(『形見 名残の飯』 P.23より)

周吉はおすみが働くことを苦々しく思い、親の味を知らずに育ったおすみは愛情に欠け、まともな子育てはできないと思っていました。
転んでお尻をしたたかに打ったおすみよりも、どこも打っていないおしゅんのことを心配し、仕事を休んで医者に連れて行くように命じました。

早く仕事の勘を取り戻したいと焦るおすみと、彼女の仕事にまったく理解がなく育児や家事を押し付ける周吉。
現代でも起こるような夫婦の心情のすれ違いが秀逸な描写で描かれています。

「端からお前が家にいれば、こんなことも起きねえ」
 思った通り。結局、いつも同じことを言われた。
「母親のくせに、職人気取りで娘を放り出してるから、子どもが気を惹こうとして熱を出すんだ」
 
(『形見 名残の飯』 P.27より)

『しん』には、人生がうまくいかずに迷ったり、世間とうまく折り合うことができなかったり、挫折感を感じている人を引き寄せる力があります。

女将のおしげと若女将のおけいの母娘が、八年前までは日本橋瀬戸物町の飛脚問屋の女将と娘でした。

しかし、ある事件をきっかけに、おしげの息子の新吉は江戸十里四方払いの裁定を受け、店も人手にわたり、嫁に行っていたおけいも婚家から離縁されてしまいました。

失意のどん底から、再起のために二人が始めたのが一膳飯屋でした。
『しん』の心のこもった接客と、時には傷ついた者に寄り添うように作られた料理が胸を打ちます。

第二話「形見」では、年老いてますます意気軒昂な料理人平吉の過去が明らかになります。『しん』にやって来る日本橋駿河町の酒問屋の隠居、彦兵衛の因業ぶりも描写もリアルで興趣があります。

イラストレーター立原圭子さんによる表紙装画には、渡し舟に乗っている柴犬が描かれています。これは第三話「友だち」をモチーフにしたもの。思いがけない人物とともに、犬の茶太郎が登場するので注目です。

本書では、『しん』に新しい働き手が加わります。
新キャラクターの登場で、物語はますます広がりを見せ、今後の展開も楽しみになりました。

さまざまな思いを抱えて立ち寄ったお客を、おいしい料理と行き届いた接客でもてなす『しん』は、今を生きる私たちにとっても、疲れた心を癒すオアシスのよう。
読むと、明日に立ち向かう勇気を与えてくれます。

形見 名残の飯

伊多波碧
光文社・光文社文庫
2022年11月20日初版第1刷発行

カバーデザイン:泉沢光雄
カバーイラスト:立原圭子

●目次
第一話 山鳩
第二話 形見
第三話 友だち
第四話 不孝者

本文307ページ

文庫書き下ろし。

■Amazon.co.jp
『橋場の渡し 名残の飯』(伊多波碧・光文社文庫)(第1作)
『みぞれ雨 名残の飯』(伊多波碧・光文社文庫)(第2作)
『形見 名残の飯』(伊多波碧・光文社文庫)(第3作)

伊多波碧|時代小説ガイド
伊多波碧|いたばみどり|時代小説・作家 新潟県生まれ。信州大学卒業。2001年、作家デビュー。 2005年、文庫書き下ろし時代小説集『紫陽花寺』を刊行。 2023年、「名残の飯」シリーズで、第12回日本歴史時代作家協会賞シリーズ賞を受賞。 ...