『海の百万石 銭屋の女たち』|平野他美|文芸社文庫
平野他美(ひらのたみ)さんの文庫書き下ろし時代小説、『海の百万石 銭屋の女たち』(文芸社文庫)を紹介します。
江戸時代に全国にその名を知られた加賀の豪商・銭屋五兵衛とその家族の物語です。
その商いの隆盛と悲劇的な最期は、いつかの歴史時代小説に描かれてきました。
本書では、母やす、妻まさ、長男の嫁きわ、孫娘千賀、五兵衛を取り巻く女たちに視点を置き、銭屋の物語を綴っていきます。
著者はこの作品で第6回草思社・文芸社W出版賞・文芸社金賞を受賞し、2022年に商業出版デビューを果たしました。
江戸後期、回船問屋として加賀国で名を揚げた豪商・銭屋五兵衛。代々続いた家業に加え、志高く海運業を興した五兵衛は、功を成して加賀藩の財政を度々救う。ところが晩年、藩や地域のためと進めていた潟湖の埋め立て工事で冤罪をかけられ、無念の最期を遂げた。隆盛期には「海の百万石」と称された銭屋五兵衛と一家を支え、共に生きた女たち――母のやす、妻のまさ、長男の嫁のきわ、孫娘の千賀。一家への謂れなき罪を背負い、銭屋再建のためそれぞれが必死に尽力した姿を、4代の女たちの視点から描いた壮大な歴史ロマン。
(カバー帯の説明文より)
三世銭屋五兵衛(幼名茂助)は、安永二年(1773)十一月、銭屋の長男として、加賀国の海沿いの町、宮腰に生まれました。
幼い頃から海の彼方に未来を夢見て、激変する時代に多感な時を過ごした五兵衛は、やげて海運業を興し、功を成して巨万の富を築き、加賀藩の財政を度々救いました。ところが、後に謂れなき罪に問われ、無念の最期を遂げました。
この話は、隆盛期には「海の百万石」と称された銭屋五兵衛と一家を支え、共に生きた女たちが、一家への謂れなき罪を背負い、銭屋再建のため、それぞれが必死に尽力した姿を物語るものです。
(『海の百万石 銭屋の女たち』P.9より)
物語は、寛政元年(1789)、十七歳になった茂助が銭屋のしきたりに沿って三世五兵衛の名前を襲名し、醤油醸造と質屋の商いの家督を継ぐところから始まります。
ありきたりの商いでは先行きが不安と思い悩む五兵衛は、やがて船を持ち回船の商いを始めました。
地道な商いで銭屋の安寧を願う母のやすは、「本当にこれでよかったのか」と、仏壇の前で手を合わせて、言い知れぬ不安に襲われるのでした。
五兵衛の妻まさは、六人の子に囲まれながら、「舅様は、貴方に良かれと思うて言って下さるのでは。それでも貴方様がお望みの商いがあるのなら、この後は、お側に居てお力になる心積もりで」と夫を引きたてました。
時宜を得た回船の商いが成功し、五兵衛のもとで銭屋は身代を大きくしてゆきます。
「あれが、じじ様の船なの」
「そうだよ。あの船で銭屋はいろんな藩と商いをして、宮腰一、いや、加賀藩一の回船問屋になるんや」
船印に御定紋の剣梅鉢があるのを見て、祖父五兵衛と父喜太郎の満足気な顔が目に浮かび、千賀は嬉しくて、早く浜に行きたいと要蔵にせがんだ。(『海の百万石 銭屋の女たち』P.155より)
弘化二年(1845)、五兵衛は、加賀藩より御手船裁許を仰せつかり、加賀藩の官船「常豊丸」を新造し、藩主の二人の子と祖母の観覧の栄誉を受け、心酔には数万人の人が宮腰の浜に集まるほど。
五兵衛の三男で幼い頃に本家に養子に出された要蔵と、五兵衛の孫娘の千賀も浜にしました。
ところが、嘉永五年(1852)、銭屋は最大の悲劇に見舞われます。
物語の後半では、悲劇の後、家名の再建に必死で立ち向かう、五兵衛の長男喜太郎の嫁・きわとその娘千賀の姿が描かれていきます。
悲劇後の一家の苦難の日々は、これまで小説で描かれることがなく、興味深くも胸に迫る物語です。
とくに千賀の献身的で鮮烈な生き様は、俳人橘田春湖から「加賀の千代女にまさる俊才」と称された彼女の俳句を交えて描かれていて、静かな感動を覚えました。
海の百万石 銭屋の女たち
平野他美
文芸社・文芸社文庫
カバーイラスト:はぎのたえこ
カバーデザイン:谷井淳一
●目次
序章
やす
まさ
きわと千賀
終章
本文250ページ
文庫書き下ろし。
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『海の百万石 銭屋の女たち』(平野他美・文芸社文庫)