『心淋し川』|西條奈加|集英社
西條奈加(さいじょうなか)さんの時代小説、『心淋し川(うちさびしがわ)』(集英社)を紹介します。
著者は、2005年『金春屋ゴメス』で第17回日本ファンタジーノべル大賞を受賞して、デビューしました。
以降、コンスタントに良質の時代小説を発表され、2012年『涅槃の雪』で第18回中山義秀文学賞、2015年『まるまるの毬』で第36回吉川英治文学新人賞を受賞しました。
そして、2021年、本書『心淋し川』で第164回直木賞を受賞されました。
江戸の片隅、小さなどぶ川沿いに建ち並ぶ古い長屋。
住人たちは人生という川のどん詰まりでもがいていた――
懸命に生を紡ぐ人々の切なる願いが胸に沁みる感動連作。(カバー帯の説明文より)
本書の舞台となる心町(うらまち)は、根津権現にほど近い、千駄木町にありました。
小さな川が流れていて、その両端に立ち腐れたような長屋が四つ五つ固まっていました。長屋ごとの大家がおらず、五十半ばの差配・茂十(もじゅう)が一人据えられていました。
十九のちほは、ここで生まれ、ここで育ちました。
父はいつも酔ってくだを巻き、母は絶え間なくおしゃべりをして愚痴を吐き出し続ける家で、ちほは針仕事で家計を支えています。
そんなある日、針仕事を回してくれる仕立屋で、上絵師の修業をする若者元吉と出会い、心惹かれていきます。
「ちほは行儀がいい上に、見栄っ張りだからね。誰かが心町から連れ出してくれるだなんて、思っちゃいないかい?」
思っていた――。心の内で相槌を打っていた。
(『心淋し川』「心淋し川」P.27より)
四年前に家を出た姉のていは、恋に悩むちほの話を聞いてはっぱをかけます……。
心町から外に出ることを夢見る娘心を描いた表題作「心淋し川」のほか、連作の六話を収録しています。
「閨仏」
不美人ばかり四人を妾に囲い、一つの長屋に住まわせている青物卸の六兵衛。十四年も長屋に住み続ける、一番年かさの妾・りきは先行きの不安を、手慰みに始めた張形を削って仏像に彫ることで紛らわしていました……。
六兵衛の店がある、駒込浅嘉町はヤッチャ場と称される青物市が立つことで知られています。
「はじめましょ」
与吾蔵は、一流の料亭で修業を積みながらも喧嘩がもとで店から首になり、以来あちこちの料理屋を渡り歩いた末にたどり着いたのが、修業時代の先輩が心町に開いた『四文屋』でした。かけ蕎麦一杯十六文と同じ値段で腹いっぱい食べれる安い飯屋です。
先輩の跡を継ぎ『四文屋』を切り盛りする与吾蔵は、ある雪の日、根津権現の境内で遊ぶ一人の女の子の遊び唄の歌声に耳を奪われました……。
「冬虫夏草」
吉(きち)は、大怪我を負って歩くことはおろか立つことができずに、厠すら行けずに家の中に籠もりっきりで、その鬱憤をひたすら酒で紛らわしている息子を抱えて、長屋で暮らしていました……。
「明けぬ里」
元根津遊郭の遊女だった、ようは、瓦笥職人と一緒になって二年。何事につけ、唯々諾々と従うことができぬ性分で、頭にくると口がめっぽう悪くなり、喧嘩ばかり。ある日、目赤不動の名で知られる南谷寺の門前で、遊郭で一の美貌と謳われた明里(あけあと)と鉢合わせしました。
同じ廓の遊女ながら、天と地ほどの違いがある扱いを受けてきた二人は、その後、ともに身請けをされましたが……。
根津権現の門前町には江戸屈指の岡場所ができていました。
心町から至近にありながら、夜の岡場所は堅気の若い娘が寄せ付けない、別の顔を持っていました。
「灰の男」
狂言回しのように各話に登場する差配の茂十の過去、心町にやって来た経緯が明らかになります。
連作の各話がこの話に向かって収れんしていくところが見事です。
本書では、それぞれの話を通じて四季折々の心町が描かれています。登場人物たちの心象風景を通して、あたかもその場所に自分もいるような思いになっていきます。
コロナ禍の今、市民生活は、かつてないほど、死への恐れや生活苦への不安が高まっています。
どちらかといえば下層に近く、その日暮らしの境遇の者たちが住む心町ですが、住人たちは、耄碌をした老人や、元遊女や妾などへの偏見がなく、皆が助け合い、ときには喧嘩をしながらもたくましく暮らしています。
「生き直すには、悪くねえ土地でさ」
登場人物の言葉が耳に残ります。
江戸時代の庶民たちの生活環境と共通点が少なくないことに気づかされました。
人々の生きる喜びや哀しみが詰まったこの物語を読んでいると、命さえあればなんとかなると、将来への不安が少し軽くなっていきました。
心淋し川
西條奈加
集英社
2020年9月10日第1刷発行
装画:木内達朗
装丁:鈴木久美
●目次
心淋し川
閨仏
はじめましょ
冬虫夏草
明けぬ里
灰の男
本文242ページ
初出:「小説すばる」2018年7月号、10月号、2019年1月号、4月号、7月号、10月号、11月号
単行本化にあたり、加筆・修正しました。
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『心淋し川』(西條奈加・集英社)