『藤沢周平 遺された手帳』
藤沢周平さんの愛娘、遠藤展子(えんどうのぶこ)さんが、父の遺した手帳をまとめて解説した、『藤沢周平 遺された手帳』(文春文庫)を入手しました。
それまで全く読んだことがなかった時代小説にハマり、以降、30年近くにわたり、いまだに好きでいられる、きっかけを与えてくれた恩人が三人います。
池波正太郎さん、藤沢周平さん、白石一郎さんで、今も敬愛しています。
とくに藤沢さんの作品では、その物語の世界に身を置くことで、現実のさまざまな煩わしさから逃避ができて、ひと時、心が癒されていきました。時代小説の効能、奥深さに気づかされた思いがしました。
口数の少ない父が遺した小さな黒い手帳と三冊の大学ノート。そこには子供の誕生、妻の死、鬱屈する日々を経て、「藤沢周平」となるまでの苦闘の足跡が綴られていた。なぜ父は小説を書き続けたのか。自分はどのように生まれ、育てられたのか――。没後二十年を契機に愛娘が読み解き、明らかにされた作家の心の声。
(本書カバー裏の紹介文より)
著者は、昭和38年、藤沢周平(本名・小菅留治)さんの長女として東京に生まれました。藤沢周平さんの著作権を管理するかたわら、エッセイストとしても、著作『父・藤沢周平との暮し』や『藤沢周平 父の周辺』があります。
本書は、藤沢周平さんの四冊の手帳をもとに構成されています。
最初の一冊は、著者が生まれた昭和三十八年から始まるもの。あとの三冊は、当時暮らしていた東京都東久留米市金山町に引っ越してからのことを綴った「金山町雑記」と題した昭和四十六年~昭和五十一年までのものです。
父には全く似ていないといつも嘆いていましたが、今になって私にも、書き遺すという作家としての父の遺伝子が少しはあるのかもしれない。父の記憶を遺したい、伝えたいと考えるのはやはり血なのかなと感じています。
(『藤沢周平 遺された手帳』「はじめに」P.13より)
長女の誕生し、親子三人の幸福な生活の始まり、そしてあまりにも早すぎる妻の死。
故郷鶴岡で教職に就きながらも、結核療養のために上京し、五年にわたる療養生活をつづけ死を意識していた藤沢さんにとって、妻が先に亡くなってしまうことは想像もしていなかったことで、その悲しみの大きさは計り知れません。
10月29日 まだ雨晴れぬ。夜、濡れて帰る。缶詰、白菜のつけたもの。それと卵を買って、波のように淋しさが押し寄せる。狂いだすほどの寂しさが腹にこたえる。小説を書かねばならぬ。展子に会いたい。
(『藤沢周平 遺された手帳』「小説を書かねばならない」P.40より)
同じ月の5日に、藤沢さんは妻の悦子さんをガンで亡くします。同じ年の2月19日に展子さんを出産してから七カ月余り、二十八歳という若すぎる死でした。
日記に記された簡潔な記載から、幼子の展子さんを実家に預けて、東京に戻り一人の生活を始めた藤沢さんの孤独が伝わってきました。
「The Show Must Go On」に通じるかもしれませんが、藤沢さんは、加工食品の業界新聞を発行する会社に勤めるサラリーマンのかたわら、小説を書き続けていました。
手帳には、折々で執筆中の作品のタイトルが記載されています。巻末の年譜を参照すると、作品執筆時の藤沢家のできごとがわかり、時代小説家「藤沢周平」になるまでが興味深く読み進められます。
私たち読者は、作家の暮らしや素顔に触れることはおろか、執筆の動機や創作時の思いなど秘話もうかがい知ることはほとんどできません。
(最近では、SNSで積極的に情報発信をされている作家も少なくなく、ファンにはうれしい面もありますが。)
藤沢さんの手帳も、当時の心境を書き遺さずにはいられなかったものでしたが、それは公にして広く知らしめるものではなかったと思います。
が、著者が手帳をもとに解説を加えて、作家・作品と読者をつなぐ形で発表されています。作家の心理や作品執筆の内側に触れるもので、作家研究の一次資料としても貴重なものです。
表紙をはじめ、何枚か掲載された若き日の藤沢さんの写真が、「三丁目の夕日」に出てくるような昭和のお父さんぽくて、温かくもまぶしく感じました。
藤沢周平 遺された手帳
遠藤展子
文藝春秋 文春文庫
2020年9月1日発行
単行本『藤沢周平 遺された手帳』(2017年11月、文藝春秋刊)を文庫化したもの。
写真:昭和46年頃、金山町自宅前で
題字:遠藤浩平
デザイン:関口聖司
●目次
はじめに
1
私、産まれる
親子三人
小説を書かねばならない
新しい年
オール讀物新人賞応募
仕事と子育て
父の子守歌
2
金山町雑記
二足のわらじ
直木賞受賞
専業作家となる
小説の転機
徹底して美文を削り落とす
終わりに
文庫版あとがき
年譜
解説 後藤正治
本文279ページ
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『藤沢周平 遺された手帳』(遠藤展子・文春文庫)
『父・藤沢周平との暮し』(遠藤展子・新潮文庫)
『藤沢周平 父の周辺』(遠藤展子・文春文庫)