髪結百花|泉ゆたか
泉ゆたかさんの長編時代小説、『髪結百花』(KADOKAWA)を紹介します。
著者は、『お師匠さま、整いました!』で第11回小説現代長編新人賞を受賞し、本作が2作目となります。
遊女に夫を寝取られ離縁したばかりの梅は、生家に戻って髪結の母の手伝いを始める。心の傷から、吉原で働く女たちと距離を置いていたが、当代一の美しさを誇る花魁の紀ノ川や、寒村から売られてきた禿のタネと出会い、少しずつ生気を取り戻していった。そんな中、紀ノ川の妊娠が発覚し――。男と女の深い溝、母娘の複雑な関係、吉原で生きざる得ない女たちのやるせなさ。絶望の中でも逞しく生きていこうとする女たちを濃密に描く。
(カバー帯の紹介文より)
本書のヒロイン、髪結の母アサに育てられた梅は、湯島の金貸し《武蔵屋》の次男坊で骨董屋をしている龍之介に見初められて二年前に祝言を挙げました。しかしながら、夫は吉原の遊女・珠緒と所帯を持ちたいから別れてくれと頼まれ、実家に戻り髪結の手伝いを始めます。
まるで線香を焚いた死体置き場のようだと思った。咄嗟に飛び退くような嫌な臭いが漂っているところを、上から水でもぶっかけるように濃い香りの匂いで掻き消そうとしている。
吉原という地にはこれほど不穏な匂いが漂っていると、男たちは気付いているのだろうか。男たちはこの匂いの中で、どんな楽しい時を思い浮かべるというのか。
梅はざわつく胸を落ち着かせようと、小さく深呼吸をした。ちっとも気が晴れない。息をするだけで、肺が他人の唾液でべとつくような気がした。
(『髪結百花』 P.8より)
夫を遊女に寝取られた心の傷から、髪結いの母の手伝いで初めて訪れた吉原は、梅にとって不快を感じる場所であり、遊女たちにも距離を置いていました。
男に情を持たぬという遊郭一の花魁紀ノ川や女衒によって寒村から売られてきたばかりの小さな娘タネと出会い、何度か、その髪を自分の手で結うことを通して、次第に心の距離を詰めていきます。
「髪結いさん、これで、しゃぐまを作っておくんなまし」
紀ノ川の口調は職人に仕事を頼む客らしいあっさりとしたものだった。しかし梅に紙包みを差し出す手つきは、まるで蝶の薄羽でも抱くように丁寧だ。
(『髪結百花』 P.54より)
梅は、紀ノ川から髪の毛の束が入った紙包みを渡され、「銭はいくらかかっても構わないから、必ず“俄(にわか)”に間に合わせてほしいと依頼されます。
“しゃぐま”とは、花魁が髷に括りつける、一抱えほどもある円盤状の付け毛のことです。中国に生息する、ヤクと呼ばれる動物の毛を巻き付けて作ります。ウィッグのようなもの。
また、“俄”とは、吉原で年に一度行われる夏祭りで、幇間や芸者、ときには禿や遊女までもが参加して即興芝居を行います。
この年の“俄”の席で紀ノ川は、遊女を題材にした美人画を得意とする浮世絵師酒井抱一に錦絵を描いてもらうことになっていました……。
紀ノ川は初めてその姿を目にしたときと同じ、人形のような紺色の瞳をして掴みどころのない笑みを湛えていた。
しかし梅には紀ノ川の姿がこれまでとは違って見えた。
梅の心には、ほんの一瞬の、紀ノ川との会話に漂っていた華やいだ空気が残っていた。
楽しくお喋りをして相手のことをもっとたくさん知り、己のことをたくさん知って欲しいという、女同士の親密な気配が温かく残っていた。(『髪結百花』 P.82より)
「お梅さんは、嫌な女じゃなかりんせん。嫌な女房だけでありんす」という紀ノ川の言葉が印象に残ります。
各章には髪型に関するタイトルが付いていて、髪型の意味や髪結いの技術について、随所で描かれていて、江戸の結髪への興味も湧いてきます。
本書は、吉原を舞台に遊女たちの生き様を情感豊かに描きながらもエロティックなところがなく、安心して読めます。母と娘の複雑な関係も物語の中に巧みに織り込まれていて、梅の人間的な成長に焦点を当てた女性小説です。
●目次
第一章 かむろ
第二章 しゃぐま
第三章 灯籠鬢
第四章 銀杏返し
第五章 文金高島田
●書誌データ
髪結百花
著者:泉ゆたか
出版社:KADOKAWA
2018年12月14日発行
装画:山科理絵
装丁:坂詰佳苗
ページ数:235ページ
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『髪結百花』 (泉ゆたか・KADOKAWA)