葉室麟さんの長編時代小説、『雨と詩人と落花と』(徳間文庫)を入手しました。
文化二年(1805)に、儒学者で詩人の広瀬淡窓(たんそう)によって天領の豊後国日田に全寮制の私塾・咸宜園(かんぎえん)は創立されました。
本書は、淡窓の弟で咸宜園の二代目塾主・広瀬旭荘(きょくそう)とその妻・松子の物語です。
咸宜園は、「三奪の法」と呼ばれる、身分・出身・年齢などにとらわれず、全ての塾生が平等に学ぶことができるようにされたという特色をもち、毎月試験を行い月旦評(げったんひょう)という成績評価の発表が行われました。
全国から塾生が集まり、江戸時代の中でも日本最大級の私塾となりました。
葉室麟さんの時代小説に、広瀬淡窓と咸宜園創設を描いた『霖雨(りんう)』があります。
こちらには、淡窓の弟で旭荘の兄にあたる、広瀬久兵衛(大分県知事の広瀬勝貞さんはそのご子孫)が淡窓を支える役として登場します。
時は大塩平八郎の決起など各地が騒然としている激動期。天領豊後日田の広瀬旭荘は私塾・咸宜園の塾主として二度目の妻・松子を迎える。剛直で、激情にかられ暴力をふるうこともある旭荘だが、本質は心優しき詩人である。松子は夫を理解し支え続けた。しかし江戸で彼女は病魔に倒れる。儒者として漢詩人として夫としてどう生きるべきか。動乱期に生きた詩人の魂と格調高い夫婦愛を描く。
(本書カバー裏の紹介文より)
日田の広瀬家は天領の日田金を扱い、大名貸しまで行う富商として知られていました。旭荘の二十五歳上の兄淡窓は私塾・咸宜園を開き、諸国から門人を集め、学者として詩人として名を馳せていました。
天保元年(1830)、旭荘は子供のいない淡窓の養子となり、咸宜園を引き継ぎ二代目の塾生となっていました。
物語は、天保三年十二月、旭荘が新妻を迎える婚礼の日から始まります。
旭荘は二年前に一度妻を迎えましたが、激情にかられて妻に暴力を振るい離縁していました。
新しく迎える妻にもまた去られるのではないかという、懸念に怯えていました。
「よいのでしょうか。わたしは去年、妻を去らせたばかりです。一年もたたぬのに、また妻を迎えるなど無節操ではありませぬか」
と訊いた。淡窓はゆっくりと振り向いて、微笑みながら答える。
「そのことは何度も話した。そなたは咸宜園の塾主だ。熟主たるものが、妻に去られ独り身でいては世間でどのような噂を立てられるかわからぬと塩谷郡代様が仰せなのだから、やむを得まい」(『雨と詩人と落花と』P.11より)
塩谷郡代とは、天領である日田に置かれた西国郡代役所、日田代官所を差配する西国筋郡代の塩谷大四郎のことです。塩谷は官に仕えることを望まぬ淡窓を強引に日田代官所の用人格に任じ、咸宜園の盛名を自身の実績に加えようとしていました。
旭荘の再婚相手は、筑後国吉木の神職の娘、松子でした。
松子との再婚に不安を感じる旭荘に、淡窓は自作の漢詩を送ります。
「わたしには無理だと思います。仁徳が足らぬのでしょう」
「では、そのようなそなたに嫁す松子殿を気の毒と思う惻隠の情はないのか」
淡窓に訊かれて、旭荘は少し考えてから、
「それはございます」
と答えて、淡窓はうなずく。
「それでよい。惻隠の情は仁の端だという。惻隠の思いはやがて仁にいたるのだ。そなたは松子殿と夫婦となることで仁徳にいたれるやもしれぬ」(『雨と詩人と落花と』P.13より)
一度失敗を経験した旭荘が松子とどのような夫婦関係を築いていくのか。大塩平八郎の乱や天保の改革など、激動する時代を背景に、詩人として儒学者として旭荘はいかに生きたのか。物語の行方が大いに気になります。
目次なし
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『雨と詩人と落花と』(葉室麟・徳間文庫)
『霖雨』(葉室麟・PHP文芸文庫)