2週間ぐらい前から前歯の差し歯に違和感があったが、歯医者さんが苦手でそのままにしていた。そしてついに木曜日にランチを食べた後から、差し歯がグラグラとして鈍い痛みを感じるようになった。「ヤバイ」と思い、金曜日の午前中に数年前に差し歯を入れてもらった、以前の勤務地近くの歯科に行くが、その歯科医院が無くなっていた。動揺を抱えたまま、オフィスの近くのA歯科に頼み込んで急患扱いで、その日のうちに診察してもらうことになった。
診察の結果、差し歯が抜けそうというよりも、差し歯が歯肉の一部とくっついたまま、歯肉から裂けてしまったというひどい状態だった。差し歯を入れ直すことはできずに、両隣の歯とブリッジをかけるか、インプラントにするか、ということ。一瞬、目の前が真っ暗になる。動揺を隠せぬまま、即座に差し歯を抜歯する。
口の中から出血が続き、麻酔と痛み止めを飲んだ後のボーっとした状態のまま、残っていた仕事を片付けて家に帰るが、その日、3つめの悲劇が襲う。自宅の玄関にたどり着いたときに、オフィスの鍵を持って帰ってしまったことに気付く。鍵はセキュリティをセットするのに必要であり(セットするのを失念している)、かつ、土曜日に出勤するスタッフもいるので、オフィスに戻さないとまずいことに。21時過ぎだったが、それからオフィスに戻りセキュリティをセットして、家に帰ったのが23時30分だった。
どん底の心境で、オフィスに戻るときに読んだ本が翔田寛(しょうだかん)さんの『夏至闇の邪剣 やわら侍・竜巻誠十郎(げしやみのじゃけん・やわらざむらい・たつまきせいじゅうろう)』だった。『五月雨の凶刃』に続く「やわら侍・竜巻誠十郎」シリーズの第2弾。主人公の誠十郎は想身流柔術の指南役であり、袴姿の侍のなりながら腰には差料(さしりょう。太刀と脇差)がない、「やわら侍」である。とはいえ、月に三日の柔術指南だけでは生計が立てられず、酒樽配達などの日雇い仕事でしのいでいた。
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「やわら侍」の誠十郎は市井にありながら、八代将軍徳川吉宗の御用取次を務める加納久通の配下で、「目安箱改め方」という秘密の役目を持っていた。久通は江戸城辰ノ口評定所門前腰掛の上に設置された目安箱を管轄し、目安箱に投ぜられた訴状の中で、公には取り上げることができないものの中から、捨て置けない重大な案件を、「目安箱改め方」に命じて隠密裏に探らせて解決していた。
誠十郎は、酒樽配達の途中で、銭を落としたと泣いている下女と丁稚然の女の子と男の子を見かけて、窮状に同情して懐の手持ちの百文を出してやることにするが、二人の勤め先に行ってみると、そんな奉公人はいないということで、騙し取られたことに気付く。店賃が払えるかどうか、心細くなった誠十郎は、口入屋・恵比寿屋の仁吉から、道灌山近くの店「杉田屋」で、井戸掘りの手伝いの日雇い仕事を紹介される。そして、同じころ、道灌山近くにある、前の将軍の生母ゆかりの寺、幸徳寺の門主がいかがわしい女たちと通じて、怪しげな加持祈祷を行っているという訴状が目安箱に投げ込まれた…。
このシリーズの魅力のひとつが、「やわら侍」誠十郎の人情味あふれる温かい人柄と両親の教えを忠実に守る純粋な心である。きつい日雇いの仕事を続ける誠十郎に、久通が褒美を取らそうという場面。
「たしかに私は、加納様のご配下にお加えいただきました。しかし、目安箱改め方は、亡き母より教えられました義を貫くためのお役目と、そう受け止めております。いまもし、そのお役目の働きを理由に、ご褒美を頂戴したとなれば、草葉の陰で母が泣きましょう。いいえ、褒美ほしさに走り回る愚か者と、私を叱り付けるに違いありません」
うむ、と久通がうなずく。
「その志、殊勝だな。しかし、日雇い仕事で、お役目が疎かになるのはまずい。何か所望いたせ」
「いいえ、たとえ日々の糧を稼ぐために働かなければならずと、決してお役目を疎かにいたしませぬ。それに、私は、思い切り体を動かして働くことが好きなのです」
(『夏至闇の邪剣』P.111より)
もうひとつの魅力が剣を持たずに、素手で悪に立ち向かう誠十郎のやわら技。剣とやわらの対決シーンが異種格闘技っぽくて面白い。そんな誠十郎だが、今回、強敵を前に自分の柔術の限界に悩む。
そして、江戸川乱歩賞受賞作家らしく、ミステリータッチのストーリー展開で、結末まで一気に読ませる。読了後に何ともいえない爽快感が残った。しばし歯の憂いを忘れさせてくれた一冊である。
おすすめ度:★★★★☆