時代小説の名手が描く、昭和四十年代を駆け抜けた女性画家
文藝春秋から刊行された、植松三十里さんの長編小説、『空と湖水 夭折の画家 三橋節子』を紹介します。
本書は、昭和五十年(1975年)二月、三十五歳の若さで亡くなった伝説の女性画家・三橋節子(みつはしせつこ)の画業に懸けた情熱と家族への愛を描いた長編小説です。
著者の植松さんは、『ひとり白虎 会津から長州へ』では白虎隊士で唯一生き残った飯沼貞吉の生涯を、『志士の峠』では明治維新の先駆けとなった公家・中山忠光に、『大正の后 昭和への激動』では明治・大正・昭和と激動の時代の皇室を支えた貞明皇后の生涯、そして『調印の階段』では不名誉な降伏文書への調印を引き受けた外交官・重光葵をといった具合に、歴史の狭間に埋もれた人物を掘り起こして、知られざる生涯に光を当てた作品の数多く発表しています。
植松さんの歴史時代小説では、史実をもとにしながらも、主人公の生涯をドラマチックな読みごたえのある物語として再構築していきます。読み進めるうちに主人公に共感し、その波瀾に満ちた人生や情熱を懸けた生き様に感動を覚えます。
歴史時代小説の名手が、昭和四十年代という比較的新しい時代を舞台に、伝説の女性画家のどこに光を当てて描いていくのか興味をもって本書を手にしました。
三橋節子は白い息をはきながら、京都府立大学の構内図を頼りに、キャンパス内の小道を北に向かっていた。
(『空と湖水 夭折の画家 三橋節子』P.3より)
物語は、昭和四十三年一月二十一日から始まります。
主人公の節子は二十八歳。七年前に美大の日本画科を卒業し、美術展で入選し始めていましたが、絵描きとして食べていくには程遠く親がかりでした。
京都日本画総合展に作品を搬入するために向かった、会場の京都府立大学で、節子が所属する新政策研究会の仲間で、片想いの画家の卵、鈴木靖将と出会います……。
私自身が子供の頃の世相や風物が描写されていて懐かしく読み進めることができ、携帯電話もSNSもない時代の若い男女の交際の様子が新鮮に映りました。
「恋愛する女は、恋愛せえへん女よりも、深く人生を知ることができる。結婚する女は、結婚せえへん女よりも、もっと深く人生を知ることができる。結婚して子を持つ女は、子供を持たへん女より、もっともっと深く人生を知ることができる。君は絵描きやし、人生を深く知る必要があると、僕は思う」
(『空と湖水 夭折の画家 三橋節子』P.74より)
やがて、節子は靖将よりプロポーズをされます。
「私、結婚しても、絵描きでいられるやろうか」と不安な節子にこたえます。
「あかん」
節子はペインティングナイフを置いて、深いため息をついた。やはり右手でなければ、絵など描けるはずがなかった。
その夜も眠れなかった。靖将も眠れないようで、闇の中で話しかけてきた。
「もしも万が一、右手がのうなっても、絵は続けような。僕も手伝う。まだ左手があるし、僕の両手を合わせれば、手は三本ある。それで頑張って描こ」
(『空と湖水 夭折の画家 三橋節子』P.124より)
靖将と結婚して三年、子供が二人できて、新進気鋭の画家としても注目される節子に、がんが見つかり、転移を抑えるために右腕を切らなくていけないと診断されます。
節子は、見舞いに来た子供を抱きしめて、片腕を失うのはつらいが、この子たちのために生きる。生きるために、片腕を差し出すのだと自分自身に言い聞かせます。
画家の三橋節子は死ぬ。でも母親である鈴木節子は生きるのだ。結婚して子供ができて、絵を断念する女たちは、いくらでもいる。と、抗えぬ立場を受け入れようとします。
(前略)もういちど絵に目を向けた。病気で右腕を失って左手で描き続け、幼い子供たちを残して三十五歳で早世したことは、すでに調べてあったが、涙が止まらなくなった。作品の奥に、彼女の短くも、ひたむきな人生が垣間見えたからだ。
(『空と湖水 夭折の画家 三橋節子』あとがき P.258より)
本書は、壮絶な闘病記ではありません。
利き腕切断後の、画家としての再生と成長の物語であり、一人の女性を中心とした家族の物語でもあります。
命がけで絵に取り組む節子。夫と子供たちへの深い愛情。
真摯な生き方に触れて、感動し目頭が熱くなり、涙が流れました。
深い余韻を残しながらも、明日を生きる勇気を与えてくれる、前向きになれる読み味の良い物語です。
本書の表紙カバーや扉に節子の代表作が掲載されていますが、縮小されているので細かいタッチや微妙な色彩は想像するしかありません。
いつか、大津の三橋節子美術館で、家族への愛情と心血を注いで描いた実物を見たいと切に思いました。
作中で紹介された、米国人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが建てた大津教会とともにこの目で確認したいです。
◎書誌データ
『空と湖水 夭折の画家 三橋節子』
出版:文藝春秋
著者:植松三十里
装丁:野中深雪
カバー絵:三橋節子「三井の晩鐘」
扉絵」三橋節子「余呉の天女」
第1刷発行:2019年7月5日
1700円+税
262ページ
書き下ろし
●目次
なし
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『空と湖水 夭折の画家 三橋節子』(植松三十里・文藝春秋)