植松三十里さんの文庫書き下ろし時代小説、『ひとり白虎 会津から長州へ』が集英社文庫から刊行されました。
歴史の潮流から外れた、無名の人物の生き様を丹念に掘り起こして、人間ドラマとして再構築した小説を数多く著作してきた植松さん。
本書で光を当てたのは、白虎隊で唯ひとり生き残った隊士・飯沼貞吉(いいぬまさだきち)です。
戊辰戦争に参戦した会津藩白虎隊士・飯沼貞吉。仲間達と自刃したが、唯ひとり蘇生する。江戸の謹慎所で、生き残りと誹りを受ける貞吉に、捕虜受け取り責任者楢崎頼三が、自分の故郷長州へ行こうと誘う。会津を失った貞吉は、敵だった長州へ楢崎と旅立つが……。
飯沼貞吉は、四百五十石取りの会津藩士の家に生まれ育ち、十五歳のときに戊辰戦争に敗れ、護国寺に置かれた謹慎所に会津人300名とともに収容されました。
「おめえ、白虎隊の仲間が、大勢、自刃したのに、ひとりだけ死に損なったんだってな。その首の手ぬぐいの下が、ためらい傷か」
さすがに貞吉は黙っていられずに言い返した。
「ためらい傷ではないッ」
会津盆地の外れにある飯盛山で、白虎隊の一部が集団自刃し、貞吉も脇差で喉を突いたものの、ひとりだけ蘇生してしまった。それは事実だが、断じて、ためらったわけではなかった。
(『ひとり白虎 会津から長州へ』P.8より)
貞吉はこの謹慎所で、長州藩の楢崎頼三や医者の松野礀(はざま)と出会い、頼三の両親が暮らす長州・小杉村へ行くことを勧められます。
このとき、貞吉には一生死に損ないと後ろ指をさされ続きるより、故郷会津を棄て、誰も知らない土地に行って、新しい人生を踏み出す道しか残っていませんでした。
本書を読んで、数年前に夏休みを使って会津を旅行した際に、さざえ堂(昇りと下りがすれ違わない二重らせん階段が面白い不思議な建築物です)から白虎隊の自決の地で十九隊士の墓がある飯盛山を巡った日のことを思い出しました。
飯盛山の麓にある、白虎隊伝承史学館も訪れて資料や展示も見たはずでしたが、貞吉が長州に行っていたことは知りませんでした。
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貞吉にとって、敵の情けを受け、敵国で暮らすことは難しく、故郷を棄てること、会津の誇りを棄てるように、意識を変えることは簡単なことではありませんでした。
挫折と絶望の末に、頼三や頼三の両親、村の老婆ヨネら多くの人に支えられて、小杉村の山里で晴耕雨読の生活を送るうちに、徐々に心の傷を癒していきます。
小杉村で二年目を迎え、十七歳のときに、転機が訪れます。
「いや、ある。おまえが広く人のために役立つようになれば、世間は会津人を見直す。白虎隊の生き残りという、世間の目を引く立場だからこそ、それができるはずだ」
頼三は言葉に、さらに熱を込めた。
「ここで暮らすのは、おまえには楽だろう。心に負った傷を癒すためには、時間がかかったのもしかたない。だが、このままでは会津の汚名は雪げないぞ。おまえ自身の汚名もだ」
(『ひとり白虎 会津から長州へ』P.96より)
ここから、貞吉の再起のドラマが始まります。
「おまえならわかるだろう。死んだ者たちよりも、生き残った者の方が、はるかについらいということを。美しいのは死ではなく、生き残ったつらさを乗り越える力だと、私は思っている」という、貞吉の恩師で沼津兵学校の藤沢次謙(つぐよし)の言葉に励まされ、一歩を踏み出します。
幕末維新から明治を苦しみながらも誇り高く生き抜いた男の物語に感動しました。
本書には、幕府の陸軍副総裁で沼津兵学校を開いた藤沢次謙、榎本武揚らとオランダ留学をして医学を学んだ静岡病院院長林研海、松野礀とそのドイツ人妻・クララ(幼児教育者)など、興味深い人物が登場します。
注:松野礀の礀(はざま)という字は、石へんに門構えの中は「月」です。
◎書誌データ
『ひとり白虎 会津から長州へ』
著者:植松三十里
集英社・集英社文庫
第1刷:2018年2月25日
ISBN978-4-08-745708-7
本体600円+税
カバーデザイン:木村典子(Balcony)
イラストレーション:ヤマモトマサアキ
276ページ
●目次
一 謹慎の寺
二 自刃まで
三 小雪ちらつく
四 傷跡
五 翡翠色の堀
六 口入れ屋
七 ふたつの故郷
八 海峡を渡る
九 飯盛山ふたたび
十 植樹の丘
解説 中村彰彦
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『ひとり白虎 会津から長州へ』(植松三十里・集英社文庫)