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二・二六事件の真の犠牲は誰? 憲兵隊員が軍の歪みを暴く

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『二月二十六日のサクリファイス』|谷津矢車|PHP研究所

二月二十六日のサクリファイス谷津矢車(やつやぐるま)さんの書き下ろし歴史小説、『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)を紹介します。

著者は、2013年に『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』でデビューして以来、戦国時代から江戸、明治に至るまで、さまざまな時代を背景に、興味深い人物を描いた歴史小説を次々と発表し、活躍しています。

朝日新聞の「文庫この新刊!」という連載では、おすすめの文庫本を3冊紹介しており、歴史時代小説に精通した水先案内人としても知られています。

谷津矢車|好書好日
好書好日(こうしょこうじつ)は、ライフ&カルチャーを貪欲に楽しみたい人におくる、 人生を豊かにする本の情報サイトです。谷津矢車さんの記事一覧ページです。

本書は、昭和11年に起きた二・二六事件にかかわった人物をミステリータッチで描いた歴史小説です。これまで主に明治以前の時代を描いてきた著者が、本作で何を描きたかったのか、非常に興味をそそられます。

侍従武官長として天皇に近侍している本庄繁陸軍大将を義父に持ち、蹶起した青年将校ともつながっていた山口一太郎大尉。二・二六事件の重要容疑者である彼の調査を憲兵隊員・林逸平が任せられるも、なぜか戒厳令司令部参謀・石原莞爾が協力すると言い出してきた。獄中でも、ストーブのある部屋での兵器の開発を許される山口を取り調べていくと――。

(『二月二十六日のサクリファイス』カバー帯の内容紹介より)

林逸平は、上司の大谷敬二郎憲兵大尉と共に、二・二六事件の主犯と目される山口一太郎の取り調べを任されます。

「弁明をする気にならんのだ。どうせ俺は処刑される。それならば、何も語らず従容と死に向かう方が、時を使わない分、合理的というものだろう」
大谷は、蓋をしたままのペン先をしきりに机に打つ付ける。
「山口大尉はご自分の立場を弁えるべきであります。此度の叛乱について、帝や臣民に申し開きする義務があります」
「俺は秘密軍事法廷で裁かれるんだろう。話した内容は誰の耳にも入らないだろうに」
大谷が口を噤むのを機に、山口は薄く笑い、肩をすくめた。

(『二月二十六日のサクリファイス』P.8より)

山口は最初、黙秘を主張しましたが、その後、白衣や製図ペン、青インクの壺、製図用紙、定規、さらにはストーブを獄中に差し入れさせることを要求しました。これらは製図を行うためですが、驚くべきことに、これらの差し入れは認められました。彼の義父である本庄繁が、満洲事変の際に関東軍司令官を務め、現在は天皇の軍事相談役として重職に就いている陸軍の大物だったためです。

軍人の家に生まれ、大物の閨閥(けいばつ)に連なる山口が、なぜ今回の叛乱に関与したのでしょうか。技術系の異能を持ち、合理的な精神を備えつつ、青年将校とも深い関係にある彼。山口の魅力的な人物像が、この作品の面白さの源となっています。

昭和11年(1936年)2月26日、陸軍の青年将校たちは首相岡田啓介、蔵相高橋是清、内大臣斎藤実、侍従長鈴木貫太郎、陸軍教育総監渡辺錠太郎を同時に襲撃し、赤坂周辺の主要な官庁を占拠しました。彼らは「佞臣の排除、政体の改造」を政府に突きつけ、この事件は「二・二六事件」と呼ばれるようになりました。

高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎は命を落とし、鈴木貫太郎は重傷を負い、一時は岡田啓介も死亡したと誤認されました。

当初、陸軍首脳部は青年将校の行動を追認する姿勢を見せましたが、天皇や宮中からの反発や情勢の変化により、2月28日までに彼らを叛乱軍と認定。
総攻撃が加えられる直前、陸軍による説得が功を奏し、2月29日には原隊復帰の形で蹶起軍は解散し、青年将校たちは次々に拘束されました。

事件当夜、山口は歩兵第1連隊の夜間指揮の責任者で週番司令でした。しかし、武器弾薬庫から兵器を持ち出し、兵を動かした青年将校たちを黙認してしまいました。
さらに、戒厳歩兵部隊の副隊長として治安維持に当たる一方で、青年将校の主張を陸軍内で説いて回ったという疑惑も浮上していました。

憲兵隊長の坂本からは、山口が宮中に対して工作を行った可能性があるため、徹底的に調査するよう命じられます。

そして、東京憲兵隊の前に戒厳司令部参謀の石原莞爾が現れます。

「――戒厳司令部が、捜査に介入か」
坂本の鋭い言葉に際しても、石原は道化めいた態度を崩さない。
「人聞きが悪い。戒厳司令部としては、一刻も早くこの叛乱の幕引きを図りたいだけだ。憲兵の邪魔はしないよ」
「ならば、どうしてここに」
「捜査協力だよ」

(『二月二十六日のサクリファイス』P.19より)

石原は「山口一太郎大尉ノ捜査ニ石原莞爾大佐ヲ加フルベシ」と書かれた命令書を見せ、捜査に強引に加わります。彼は林とともに陸軍騎兵学校を訪れ、拘束されている柴有時大尉と面会し、山口の過去を探ることに……。

石原莞爾は陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業したエリートであり、ドイツ留学の経験も持つ参謀として活躍していましたが、奇行の多さから問題児とも言われていました。彼は、陸軍内の派閥争いの中で「満洲派」を自称し、異端児として独自の立ち位置を保ちます。

天皇の大御心を絶対する皇道派と、陸軍・国家を改造し来るべき国家総力戦に備えんとする統制派の二つの派閥が覇権を争う陸軍の中にあって、「満洲派」とうそぶき、一匹狼を気取る異端児でもありました。

独断専行でありながらも、いくつもの難事件を解決に導いてきた「忠犬」林逸平と、異色のバディを組む石原。彼らは山口の過去を洗い出し、彼と事件の関わりを明らかにしていく様子は、第一級のミステリー小説さながらです。
本書では、個性的な軍人たちが次々に登場し、彼らが陸軍内で互いに策謀を巡らし、派閥抗争を繰り広げる姿が描かれます。

憲兵というと、戦時小説ではしばしば敵役として描かれますが、本書の主人公・林逸平は、憲兵でありながら、荒事に頼らず、思想信条に左右されることなく法に従い、冷静に行動しようとします。
物語の中では、彼がそのような行動を取る理由となった過去が明らかにされ、「小さな正しさを積み重ねることでしか、大きな正しさには至らない」という彼の信念には、共感を覚えます。

山口一太郎はなぜ、このような行動を取ったのでしょうか? その謎が解き明かされたとき、歴史の教科書には載らない陸軍の歪みが浮かび上がります。
このスリリングな展開こそが、昭和史ミステリーの醍醐味です。
著者による新たな代表作と言えるでしょう。

二月二十六日のサクリファイス

谷津矢車
PHP研究所
2024年8月19日 第1版第1刷発行

装丁:芦澤泰偉
装画:西川真以子

目次
昭和十一年三月
柴有時の章
昭和十一年三月
上國西彦の章
昭和十一年三月
石橋恒喜の章
昭和十一年三月
青柳芳彦の章
昭和十一年三月
栗原安秀の章
昭和十一年三月
本庄繁の章
昭和十一年三月
田中弥の章
昭和十一年三月
昭和十一年四月
山口一太郎の章
昭和十一年四月
エピローグ 昭和二十七年

本文430ページ

書き下ろし。

■今回取り上げた本

谷津矢車|時代小説リスト
谷津矢車|やつやぐるま|時代小説・作家 1986年、東京都生まれ。駒澤大学文学部歴史学科考古学専攻卒業。 2012年、「蒲生の記」で第18回歴史群像大賞優秀賞受賞。 2018年、『おもちゃ絵芳藤』で第7回歴史時代作家クラブ賞作品賞受賞。 ■...