『鹿鳴館の花は散らず』|植松三十里|PHP研究所
植松三十里(うえまつみどり)さんさんは、歴史の狭間に埋もれていた人に光を当てて、その生涯を鮮やかに描き出す歴史時代小説の名手です。
歴史小説、『鹿鳴館の花は散らず』(PHP研究所)では、“日本のナイチンゲール”と呼ばれ、赤十字活動を支えた侯爵夫人・鍋島榮子(ながこ)の激動の半生を描いています。
日本赤十字社の生みの親というと、佐賀出身の佐野常民(栄寿)がよく知られています。
歴史小説にも、高橋克彦さんの『火城 幕末廻天の鬼才・佐野常民』があります。
鍋島榮子の名は、日本赤十字社での活躍よりも、鹿鳴館外交が華やかかりし頃、戸田極子とともに“鹿鳴館の名花”として知られています。
当時の写真を見ると、華やかなバッスルスタイルのドレス姿がよく似合っています。
明治初期、近代国家としてスタートしたばかりで、東洋の小国に過ぎなかった日本にとって、国際的地位の向上は急務だった。公家の娘として生まれた榮子(ながこ)は、岩倉具視の長男に嫁ぐものの、若くして死別。最後の佐賀藩主で侯爵、外交官だった鍋島直大と再婚し、「鹿鳴館の花」と讃えらえるほど、外交面で活躍する。しかし、鹿鳴館外交は条約改正に至らず、榮子は自分の役目を模索しはじめ――。
(『鹿鳴館の花は散らず』カバー帯の紹介文より)
榮子は公家の廣橋家に生まれ育ち、十四歳で明治維新を迎え、翌々年に岩倉具視の長男・具義(ともよし)に嫁ぎました。
しかし、二十三歳のときに夫が早世し、妻に先立たれた最後の佐賀藩主で外交官の鍋島直大(なおひろ)と再婚しました。
明治二十年四月二十六日の夜、ちょっとした事件が起きました。
岩倉具視の娘で、外交官戸田氏共(うじたか)の妻の戸田極子(きわこ)が、ある明治政府高官に乱暴を働かされそうになったのです。
極子は大きなショックを受けて、「鹿鳴館には行かない。もう条約改正なんかどうでもいい」と涙をこぼしました。
榮子は、かつての義妹を慰め、条約の相手国に海外赴任できるように、夫に上司の井上馨への働きかけを依頼します。
「私も極子さんも、ずいぶん頑張ってきたつもりです。子供が熱を出して、泣いてすがられても、乳母に預けて、着飾って出かけなければならないつらさが、おわかりになりますか」
榮子には五歳を頭に三人の娘がいる。極子は長女が十歳で、やはり三人娘の母親だ。
「ご存じでしょうけれど、私は本当に内気で、人づきあいは苦手です。なのに夜会では、作り笑いが自然に見えるように、必死に努力して。本当は英語だってフランス語だって、すべて理解できているわけじゃないんです。極子さんが、もう疲れたというのも、当たり前です。(『鹿鳴館の花は散らず』P.21より)
不平等条約の改正は、明治政府が取り組んだ最も難しい政治課題の一つでした。
付け焼刃の欧化政策である鹿鳴館外交が失敗に終わったことは知っていましたが、この不平等条約改正のために、鹿鳴館外交に携わった政府高官の妻たちの思いについては本書で初めて知りました。
さて、その翌年の明治二十一年七月、榮子は直大に佐野常民から届いたという電報を見せられました。
昨日、磐梯山が大噴火して大勢のけが人が出たらしく、仙台にいる佐野は現地に向かうが、赤十字として救護したいので、直大に後方支援を頼みたいと。
佐野が設立した博愛社を母体として、明治二十年に改称した日本赤十字社には、佐賀藩の縁で直大も評議員を務めていて、榮子は、佐野が同時に立ち上げた篤志看護婦人会という支援団体の幹事の一人になっていました。
榮子は、直大から噴火の救護に行ってやれと言われました。
赤十字の救護は戦争による負傷者が対象と思い込んでいた榮子は、突然、災害救護と言われても覚悟ができておらず、戸惑っていました。
「行くのが嫌か」
「いいえ、嫌というわけではないのですが、ただ、驚いて」
「ならば、行ってやれ」
もういちど繰り返した。
「会津に行って、怪我人を助けてやれ。それが篤志看護婦人会の役目だろう。
(『鹿鳴館の花は散らず』 P.95より)
磐梯山の噴火により、六里四方に岩石が飛び散り、火砕流が発生し、死者は数百人で怪我人は数知れず、圧倒的に医者が足りないと、翌朝の新聞に記事が載りました。
直大は赤十字本社に行って、佐野の留守を預かると言い、皇后さまもご下賜金を出してくださると。榮子は、篤志看護婦人会を取りまとめて会津に向かうことに……。
榮子が磐梯山噴火の被害が大きい猪苗代村で看護活動をするところが、本書の読みどころのひとつです。
焼けただれた皮膚が大きくむけたり、飛んできた岩に当たり、肉が深くえぐられて白い骨まで見えている者。
でうめき声が上がる中、地獄絵のような目を背けたくなるような凄惨な被災現場が広がっていました。
なかには、家も潰れて田んぼも埋もれて、自身は両脚に大火傷を負ってしまい歩くことができない男性もいて。
男は、戊辰の年に朝敵にされて戦争を仕掛けられた会津藩士でした。
本書によれば、鍋島榮子は自分が目立つことはしたくないと黒子に徹していたために、晩年まで佐野の陰に隠れていました。
しかし、佐野が亡くなった後、日本赤十字社としての国際的な評価を勲章や徽章を授かるようにしましたが、新聞社からの取材はすべて断ったとか。
そのため、その功績は現在あまり知られておりません。
著者の『かちがらす 幕末の肥前佐賀』で描かれた幕末佐賀藩の話や、『大正の后 昭和への激動』で触れられた皇室と会津藩との関係などにもリンクし、幕末から明治への興味が深まる歴史小説となっています。
榮子はイタリアで、「ノブレス・オブリージュ」(フランス語 noblesse oblige)という言葉を知りました。
民主主義の時代には理解しにくい言葉ですが、貴族は社会の規範となるべく義務を負っているというような意味です。
戦前の皇室や華族に求められた、明文化されていない不文律の社会心理にも通じるものでした。
榮子の生涯は、「ノブレス・オブリージュ」の精神を全うした、気高く、美しいものでした。
本を閉じた時、感動がじわじわと湧いてきて、目頭が熱くなりました。
鹿鳴館の花は散らず
植松三十里
PHP研究所
2024年8月5日第1版第1刷発行
装丁:bookwall
装画:ヤマモトマサアキ
●目次
一章 鹿鳴館の名花
二章 幕末騒乱の都
三章 不平等条約改正
四章 磐梯山噴火
五章 肥前佐賀藩
六章 若き看護婦たち
七章 ひそやかな偉業
主な参考資料
本文271ページ
書き下ろし
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