『月花美人』|滝沢志郎|KADOKAWA
滝沢志郎(たきざわしろう)さんの時代小説、『月花美人』(KADOKAWA)を紹介します。
著者は、2017年『明治乙女物語』で第24回松本清張賞を受賞し小説家デビューし、著書には、海洋冒険歴史小説『エクアドール』や赤穂浪士による仇討ちを描いた『雪血風花』があります。
本書は、江戸の女性の生理用品の改良と普及に取り組んだ、侍と女医者、商人の革命(世直し)を描いた医療時代小説です。
菜澄藩の郷士・望月鞘音は、姪の若葉との生活を少しでも楽にしようと、傷の治療に使う〈サヤネ紙〉を作っていたが、幼馴染の紙問屋・我孫子屋壮介から改良を頼まれる。町の女医者・佐倉虎峰の依頼らしいが、目的を明かさないので訝しく思うと、それは「月役(月経)」の処置に使うためであった。自分の仕事を穢らわしい用途に使われた、武士の名を貶められた、と激怒する鞘音だったが、時を同じくして初潮を迎えた若葉が「穢れ」だと村の子供にいじめられたことを知る。女性の苦境を目の当たりにした鞘音は迷いつつ、壮介や虎峰と協力し、「シモで口に糊する」とそしられながらも改良した完成品〈月花美人〉を売り出そうとするが――。
(『月花美人』カバー帯の紹介文より)
下総国菜澄(なすみ)の郷士・望月鞘音(さやね)は、両親を喪った姪の若葉と二人で村に暮らしていました。
若い頃に剣の修行一筋だった鞘音は、城下の剣術道場で師範代をつとめ剣鬼と恐れられてもいました。
鞘音は追い剥ぎに襲われて腕をけがしたときに、その治療の過程で古紙を特別に漉いて作った浅草紙に、己の名前を付けて「サヤネ紙」と呼んでいました。
「サヤネ紙」は、傷口にあてると付け心地が非常に柔らかく血もよく吸うので、晒布を汚すこともなく、うっかりぶつけても衝撃を和らげてくれて傷も痛まない点でも優れたものでした。
鞘音は生計のために、紙問屋我孫子屋に特別に漉いて作ったサヤネ紙を収めたところ、幼馴染で若旦那の壮介から、サヤネ紙をまとめて買ってくれる医者がいるという話を聞きました。
城下で開業している女医者の佐倉虎峰が言うには、サヤネ紙はけが人だけが使うものではなく、手直しをすれば、もっと大勢の人にとって役に立つものになるそうです。
ところが、それは月役、すなわち女人の月の穢れ(月経)で使う紙としての用途でした。鞘音は壮介の話を遮って問いただしました。
壮介は観念したように、サヤネ紙の行李を叩いた。
「そう、そのとおりだ。サヤネ紙は女の下(しも)の用を足すのにちょうどいいらしい。血をよく吸うから――」
壮介はその先を言えなかった。鞘音が立ち上がり、壮介の襟首を締め上げたのである。
「おぬし、武士の名を何と心得ておる……!」
鞘音の突然の振舞いに、店内が騒然とする。
「私が作ったものだ。私の名を付けたものだ。それを穢らわしき用に使わせるとは、いかなる了見か!」(『月花美人』P.29より)
激高して、壮介の襟をさらにきつく締め上げていた鞘音を投げ飛ばしたのは、サヤネ紙を買いに来た医師の佐倉虎峰でした。女医の虎峰は三代目で、弁が立つうえに柔術も使えました。
虎峰は行李のサヤネ紙を自分の風呂敷に移し、手際よく包んだ。慣れた様子からして、常連のようだ。
「さて、望月鞘音さま。若旦那からお話があったと思いますが、サヤネ紙の手直しをなさらぬならば、それでよし。これからは私が自分で作るだけのこと。憐れみを受けるのはお嫌なようですから、それでよろしいでしょう。
立ち尽くす鞘音をよそに、虎峰は風呂敷を抱えて戸口に向かった。
(『月花美人』 P.35より)
自分の名を付けたサヤネ紙が本来の用途ではなく、女の下の用に使われると知り、築き上げてきた武士としての体面が一気に瓦解した鞘音。
菜澄高山家の家臣たちから「女の下の用で口に糊するとは、剣鬼も落ちたもの」と揶揄されたり、サヤネ紙を女の下に使わせて大儲けしているとか噂されたりしていました。
サヤネ紙の手直しを打診されて五日が経ちましたが、鞘音は返事を保留していました。
そんな中、姪で、今は鞘音の養女となっている数え十三歳の若葉に初花(初潮)があり、おまけに熱も出ていました。
何をしたらいいかわからず戸惑う鞘音。佐倉虎峰に診てもらうと、女によくある病で、初花による心労と月役の間違った処置による激しいかゆみで、熱を発するほど症状が重くなったと。
虎峰の治療を受けて診療所に一晩休んだ若葉は、その後、村の決まりに従って、月役の間、不浄小屋に籠もることに……。
鞘音は月役の知識がを深めるにつれて、次第に月役に苦しむ女人たちの実態を知り、サヤネ紙の手直しを前向きに考えるようになっていきます。
サヤネ紙を作る鞘音、サヤネ紙を商品として売り出す壮介、サヤネ紙を「月役紙」として女の下の用に勧めている虎峰の三人の品質改良の苦労話が描かれています。
三人は、改良を重ねたサヤネ紙(月役紙)を「月花美人(げっかびじん)」と名付けました。
武士としての矜持に葛藤をしながらも、愛する者を守るために、人びとの無知や偏見に屈せず戦う鞘音の姿に心が震えました。そして、すべての責任を一身に背負い、命を懸けて売り出す壮介、女人が正しい月役の処置を知って、少しでも血の道の病にかかる者が少なくなるようにと考える虎峰。
かれらの女人を穢れから救うための世直しは、菜澄の領主・高山重久の政治改革によって、大きな事件に発展していきます。
作品の舞台となる菜澄は架空の地ですが、下総の北西部に位置し、近くには手賀沼(物語では菜澄湖)や利根川があることから、現在の我孫子市がモデルと思われます。
帰命頂礼血盆経 女人の悪業深きゆえ 御説き給う慈悲の海 渡る苦海の有様は 月に七日の月水と 産するときの大悪血 神や仏を穢すゆえ おのずと罰を受くるなり
(『月花美人』 P.13より)
本書には、女人を血の池地獄から救済することを説いた「血盆経(けつぼんきょう)」が登場し、菜澄には清泉寺という「血盆経」の聖地があって、時の禁忌となっていた月役に苦しむ多くの女人が帰依しているという設定になっています。引用は、壮介の兄で、清泉寺の末寺の方丈をつとめる宗月が和語で讃える歌です。
本書を読み終えた後で、「血盆経」信仰が実際にあって、現在も我孫子市の正泉寺に信仰資料が残されていると知り、驚くとともに感動を覚えました。
月花美人
滝沢志郎
KADOKAWA
2024年7月26日初版発行
装画:水口理恵子
装丁:原田郁麻
●目次
序章
第一章 サヤネに斬られる
第二章 初花
第三章 不浄小屋
第四章 蟷螂の斧
第五章 清く気高く美しく
第六章 殿の御成り
第七章 真剣勝負
終章
本文317ページ
書き下ろし
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