『月ぞ流るる』|澤田瞳子|文藝春秋
大河ドラマ「光る君へ」の放送が始まり、注目が高まる平安時代。紫式部と同時期に宮仕えした女房に、和歌の名手、赤染衛門(あかぞめえもん)がいます。小倉百人一首の「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」の句でも知られています。「光る君へ」では、凰稀かなめ(おうきかなめ)さんが演じられるそうです。
澤田瞳子さんの歴史小説、『月ぞ流るる』(文藝春秋)は、赤染衛門(物語では朝児)を主人公にした歴史時代小説です。
宮中きっての和歌の名手と言われる朝児は夫を亡くしたばかり。五十も半ばを過ぎて夫の菩提を弔いながら余生を過ごそうとしていたが、ひょんなことから三条天皇の中宮妍子の女房として再び宮仕えをすることになる。
朝児が目にした平安貴族のたちの喜びと悲しみから生み出されたものとは。(『月ぞ流るる』(文藝春秋)Amazonの紹介文より)
寛弘九年(1012)九月。
二か月目に長年連れ添った夫・大江匡衡を見送り寡婦となった朝児(あさこ)は五十六歳。嫡男の挙周(たかちか)、二人の娘、大鶴と小鶴の出世と成長を見守り、静かに余生を過ごそうと思っていました。ところが、ある日、朝児は、比叡山の権僧正の慶円から、十五歳になったばかりの弟子の頼賢(らいけん)の学問の師をしてほしいと依頼されました。
頼賢は、現在帝となっている居貞(三条天皇)が東宮時代に女御(妃)だった綏子(すいし)と源頼定の間に生まれた不義の子。同じ居貞の女御原子(げんし)のもとで育てられました。ところが、原子が二十二歳の若さで急逝すると、五歳で比叡山に送り込まれました。
幼い頃から和漢の署に触れ、歌詠みとして名を馳せた朝児は、若い頃に赤染衛門の名で、大納言源雅信の娘倫子付きの女房として働いていました。その学識の高さは広く知られています。
複雑な出自から日々激しい憤懣を抱えて、学問を疎かにし暴れ者の頼賢。騒動を嫌う赤児は、慶円の依頼を荷が重いと断りますが、権勢を揮う左大臣藤原道長の機嫌取りに懸命になる息子の挙周から、疫病神の頼賢を弟子に取って大江家の名を傷つけるような真似をするな、寡婦らしい暇つぶしをやるようと言われ、かっと熱いものが胸を塞ぎました。朝児にとってのこれからが、役に立たないもののように扱われて我慢がならなかったのです。
「だって、放っておけないじゃない。お寺に暮らしていれば、本当は学問はし放題。望めばどんな書物だって読めるのよ。それなのにあの頼賢どのはご自分の出自への腹立ちのあまり、勉学を放り出してしまっているなんて。もったいなくって、あたし、知らん顔は出来ないわ」
いかにも本好きの小鶴らしい感慨に、朝児は驚くよりもまず呆れた。だが小鶴は母親の無言にはお構いなしに、「それに母さまだって、弟子は一人より二人の方がやりやすいはずよ」と畳みかけた。
(『月ぞ流るる』 P.57より)
かくして、朝児と頼賢、そして本にしか興味がない読書オタクの小鶴、三人の奇妙な講義が始まりました。
当時の必修科目である歌に興味がなく兵法書に興味を持った頼賢に、まず『呉子』を教え始めることに。
頼賢は、兵法書を読みたい理由を、十年前に目の前でいきなり鼻や口から血を流して倒れて亡くなった原子の仇を討つためとし、そのために死の真相を探りたいと言い、犯科人として帝の妃娍子(せいし)が疑わしいとも、
朝児は、頼賢の探索を支援するため、中宮妍子の女房として再び出仕をします。
そして頼賢も……。
歴史とは勝った者、生き残った者が作るものです――宣義は語を継いだ。
「ですから本邦の六国史を繙いても、そこには負けた者、早くに没した者の声は記されません。かく言うわたくしとて自分が史書を作るとなれば、かような弱者の足跡を大っぴらに書くことはできますまい。だからこそせめて歴史に触れる者は、そこに残されぬ弱者の生きざまに目を据え、人の世の真実を知っておかねばならぬのです」(『月ぞ流るる』 P.244より)
物語には、学問の家として文章博士を務めた大江匡衡の後を継ぐ、後任の菅原宣義が登場し、歴史の真実を求めて、朝児と頼賢に関わっていきます。
一方、朝児は、藤原氏の繁栄とともに、これまでに起きた出来事を書き連ねて、自分が抱く世の栄華への疑念を物語に書こうと考え始めました……。
頼賢の養い親の原子の横死の謎を追う王朝ミステリーの要素を持ちながら、帝に譲位を迫る道長の執拗な働きかけや、頻発する内裏の火事など当時の政と宮廷が生々しく描かれています。
さらに、史書と物語のあり方の違いに気づき、歴史物語『栄花物語』を執筆に至る動機も綴られていて、平安時代が楽しめる一冊になっています。
本書で描かれているのは「光る君へ」の後半のほうの時代に当たりますが、道長のほうかにも、彰子、藤原実資らと紫式部も登場しますので、大河ファンにもおすすめの一冊です。
月ぞ流るる
澤田瞳子
文藝春秋
2023年11月30日1刷発行
装画:中島潔(橋姫 宇治の姫たち 1998)
装幀:野中深雪
目次
有明
上弦
十日夜
小望月
十六夜
暁月
本文445ページ
初出
公明新聞2019年7月1日~2020年6月30日
■今回取り上げた本