『アンサンブル』|志川節子|徳間書店
志川節子(しがわせつこ)さんの長編小説、『アンサンブル』(徳間書店)を読みました。
本書は、童謡「シャボン玉」や「てるてる坊主」、ヤクルトスワローズの応援歌でも知られる新民謡「東京音頭」の作曲家、中山晋平(しんぺい)の生涯を描いた評伝小説です。
明治生まれで、大正から昭和にかけて、大衆の音楽を作り続けた音楽家の出発点とは?
十八歳で長野から出てきた中山晋平は、島村家の書生として「早稲田文学」の編輯補佐をしていた。しかし、師の抱月や編輯部員たちの文学談義はちんぷんかんぷん。知識も才能もない晋平は、どこか居心地の悪さを感じている。俳優養成所の設立、海外作品の翻訳・演出から新劇の発展に情熱を燃やす抱月に接するうち、晋平の心中に表現への希求が芽生えてきた。
「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」「てるてる坊主」
100年経った今なお歌い継がれる名曲に秘められた想いとは。(『アンサンブル』カバー裏の内容紹介より)
中山晋平が親戚の伝手で長野県から上京し、早稲田大学で教鞭を執る島村抱月(ほうげつ)の書生となったのは、明治三十八年(1905)の初冬のこと。
明治四十二年、晋平は上野にある東京音楽学校の本科ピアノ科に通いながら、島村家の雑用や『早稲田文学』の編輯作業を手伝っていました。
『早稲田文学』は抱月の師である坪内逍遥が創刊し、一時発行が途絶えたものを留学から帰国した抱月が復刊しました。相馬御風や片山伸、白松南山の三人が編輯し、評論や詩などを発表して自然主義文学の拠点になっていました。
早稲田大学とは縁もゆかりもない晋平には、抱月と相馬たちの会話は別の世界の話のようにちんぷんかんぷんでした。しかし、当代一流の文士が出入りする島村家での生活は、晋平にとってすこぶる刺激に満ちていました。
西欧文明の背景にあるものを見聞し、味わってきた抱月によるレクチャアは、さまざまな分野に及ぶ、何気ない雑談から文学論に花が咲き、いつしか絵画や彫刻へと移って、演劇、音楽、宗教と話題が広がっていく。本場の舞台で観てきた歌劇(オペラ)や喜歌劇(オペレッタ)の話は、音楽学校の教場で聞く講義の何倍も、晋平の胸をわくわくさせる。
(『アンサンブル』P.18より)
十月半ばのある日、晋平は抱月に「早稲田文学」の原稿のことで急ぎ確認しなくてはならない箇所があって、相馬と一緒に逍遥の自宅内にある演劇研究所を訪れ、そこで一人の女優の卵小林正子と出会いました。
「あたし、こう見えて一度、結婚に失敗してるんです。いまは二番目の亭主と暮らしてますけどね。結局、誰と一緒になったところで毎日おさんどんして相手のご機嫌を取って、うかうかとお婆さんになって死ぬのかなって、あるときそんなことを考えたら、たまらなく寂しくなったんですよ。学校は芝にある裁縫学校に通ったくらいで、英語なんてからっきし。この齢になって一から勉強するのはおおごとですけど、のんべんだらりと生きていく寂しさに比べたら、いかほどのものでもない。あたしは、人生を変えるためにここへきたんです。シェイクスピアだって何だって、体当たりでものにしてみせます」
「なんとまあ、ずくがあるなあ」
「あら、あなた、信州の人?」
相馬と話していた正子が、晋平を振り向いた。意志の強そうな太い眉の下で、涼やかな瞳がりんりんと輝いている。(『アンサンブル』P.36より)
ずくがあるとは、信州の言葉で、やる気があるとか根気があるといった意味で、正子の話に感心して、晋平の口から思わず出たのでした。
小林正子は、後に松井須磨子(すまこ)の名で知られるようになります。
著者は、島村抱月と同じ島根県浜田市出身です。
抱月は郷土の偉人でありながら、所属する劇団女優の松井須磨子と不倫スキャンダルを起こして、大学教授の地位を追われ、家庭を捨てて一座の興行主に成り下がった男として、侮蔑と揶揄をもって語られると言います。
本当にスキャンダルだけの男だったのか、著者はもっとも近くで抱月を見ていた第三者の、晋平の目を借りて明らかにしていきます。
物語では、抱月、妻市子、須磨子の三角関係が描かれていきます。
波瀾の生涯そのものが悲劇のヒロインのようだった須磨子は言うまでもなく、理知的でブリリヤントで、よき家庭のお父さんだった抱月が情熱的な須磨子に心を奪われ溺れていくさまも演劇のよう。
明治末から大正にかけて、抱月と須磨子が心血を注いだ、新しい演劇運動についても活写され、物語に巧みに織り込まれています。
抱月も須磨子も、優れた演劇を通して、人々に夢を与え、楽しませたり、感動させたりしてきました。また劇団からは多くの演劇人も輩出しました。
スキャンダルだけに注目するのではなく、その人が成し遂げた業績とあわせてみていく必要があるのだということに気づかされました。
タイトルの「アンサンブル」は、音楽用語で2人以上が同時に演奏することですが、作曲家中山晋平に由来しているとともに、抱月と須磨子が作ってきた演劇運動にも相通じるものだと思いました。
抱月の劇団のため、須磨子に歌わせるために晋平が作った「カチューシャの唄」。
大衆の心と共にある音楽を。
晋平が青春の日々の中で、二人から受けたとったものは小さくありません。
表紙の羅久井ハナさんの版画が素敵で、衝動的にカレンダーをポチッとしてしまいましたが、届いた画がどの月も素敵で、とても気にっています。今年を良い一年にしたいと思います。
アンサンブル
志川節子
徳間書店
2023年11月30日第1刷
装幀:関口聖司
装画(版画):羅久井ハナ
●目次
なし
本文269ページ
初出:
「読楽」2021年3月号、5月号、7月号、9月号、11月号、2022年1月号、3月号、5月号、7月号、9月号掲載。単行本化に際し、大幅に加筆修正したもの。
■今回取り上げた本