『遊びをせんとや 古田織部断簡記』|羽鳥好之|早川書房
2023年、『尚。赫々(かくかく)たれ 立花宗茂残照』で、第12回日本歴史時代作家協会賞を受賞された羽鳥好之(はとりよしゆき)さんのデビュー第2作『遊びをせんとや 古田織部断簡記』(早川書房)が刊行されました。
慶長二十年(一六一五)、伏見で数寄者の頂点にたつ男が自裁して果てた。大御所・徳川家康の命を受け、毅然と死出についた男は、古田織部の名で呼ばれていた。
それから十八年――切腹を命じられた織部が最後に催した茶会の指示書が見つかる。末尾には「遊びをせんとや」「これにて仕舞い」の文字が。この席にはいったい誰が招かれ、どのような話が交わされ、そして、古織公はなぜ死出に旅立たねばならなかったのか、織部を深く信奉する毛利秀元は、その真相究明に乗り出す。
そこで驚くべき人物が浮上する中、秀元自身には、毛利本家との間で武人の誇りをかけた戦いが始まっていた……。
戦国の世が終わっても、まだ目に見えぬ火花が散っていた江戸初期、天下茶匠織部が天下人家康に立ち向かった深遠な理由とは? 人が生きる意味を問う渾身の歴史小説。(『遊びをせんとや 古田織部断簡記』カバー袖の説明文より)
大坂夏の陣が終わったひと月後の慶長二十年(1615)六月十一日、茶の湯者の頂点に立ち「武家式正茶」を確立した茶人で武将の古田織部が、大御所徳川家康の命により切腹させられました。
大坂の陣では、家康方であった織部が何ゆえ腹を切らされることになったのか、命じたのが絶対権力者の家康ゆえに詮索することも憚られ、織部と深い親交のある多くの大名たちでさえその真相を知ることはなありませんでした。
いつしか大坂城内への内通を伝える風説や、禁裏を巻き込んでの幕府転覆の企てがまことしやかに流布されていきました。
それから十八年を経た寛永十年(1633)の暮れ、将軍家の「御伽衆」をつとめる大名毛利秀元のもとに、織部が自裁した日に催された茶会の指示書を表装した茶掛が持ち込まれました。
(前略)丁寧に表装された上下二枚の料紙に書かれているのは、茶の湯の道具類や懐石膳の献立で、紙幅をはみ出すほどにこと細かに記されている。亭主が茶堂あたりに命じた茶会の指示書の類いだろうか。仔細に眺めると、上段には末尾に、
――あそびをせむとんや
とある。
そして下段に目を移すと、細々とした指示の末尾、やや間を空けた場所に一言。
――これにて仕舞い
そう、走り書きされていた。床の軸に仕立てられるには異様な、明らかなる文字の乱れが見られた。
(『遊びをせんとや 古田織部断簡記』P.12より)
文字は古田織部の手によるもので、下段に六月十一日、昼と書かれていて、切腹を見地られた織部が最後に催した茶会、信頼する茶の湯仲間に最後の別れを告げるために開いた席の指示書ではないか、天下の茶匠の最後の茶会ゆえその価値を知るものが後世に伝えんとしたものではないか、秀元の思いは広がっていきます。
この席に誰が招かれて、どんな会話がなされたのか――織部はなぜ家康から切腹を命じられたのか、どんな思いを最後に口にしていたのか――客となった人物は必ずやその答えを知っているはずと、織部の弟子の一人でもある数寄大名の秀元は、その一念に囚われていきます。
古田織部は通称で、諱は重然(しげなり)といい、千利休の弟子で、利休の亡き後、茶の湯者の頂点に立ち、武家の茶を確立します。山田芳裕さんの漫画『へうげもの』でもおなじみの人物です。
秀元は、同じく三代将軍家光の「御伽衆」である、奥州白河藩主の丹羽長重、筑後柳川藩主の立花宗茂を朝会に招いて、二人と織部の思い出を語りましたが、秀元の懊悩を解く糸口は見つかりません。
一時は本家の継嗣となり、関ヶ原の戦場では指揮を執った秀元は、戦いの後、周防・長門二カ国に大幅に減封された毛利家の中にあって、長門に4万7千石の余りを領する支藩主に甘んじていました。幼くして本家の当主に就いた毛利秀就とは対立し、本藩からの独立をめざしています。
数寄大名で親しい御朱印改め奉行の山城淀藩主永井尚政の上屋敷に招かれ、昨年の大御所の死によって、今夏ごろに新たな知行宛行状が今夏に手交されるであろうことを聞きました。その際に、先代よりの知行判物に知行宛行についてどう書かれているかによるだろうとも。
本書は、秀元の茶の師匠である古田織部の死の真相を探る歴史ミステリーであるとともに、本藩の軛(くびき)から離れてることを画策する支藩主の奮闘の物語でもあります。
独立工作はうまくいき、秀元の悲願は叶うのでしょうか。
さらに、秀元は伊達政宗、薩摩藩太守の島津家久らが葭原で催した連歌会に参加します。その連歌会には、秀元の愛妾である、葭原の揚屋「伏見屋」の白菊太夫も侍ることに。白菊は、連歌師の娘で、歌を詠ませたら当代一、二を争う名手といいます。
「太夫の首尾やいかに」
白菊が左右に視線を流した後、ゆったりとした口調で言った。
「この一席に名を残せたことは生涯の誇り。もう思い残すことはありませぬ」
しばし間を置き、ぽつりと加えた。
「まさに一期の夢かと」(『遊びをせんとや 古田織部断簡記』P.110より)
天下人家康と天下の茶匠織部の対立の真相が解き明かされていきます。
秀吉における利休の自裁のように、天下統一の最後の一片として、織部の自裁は必要だったのでしょうか?
本書では、戦なき世を生きる戦国武将の生き残り、毛利秀元の戦びとらしい強烈な矜持も描かれていて、戦国ファンも惹きつけます。また、白菊の歌に懸ける思いと秀元への思慕が情感豊かに描かれていて、物語に香気と彩りを添えます。
『尚。赫々たれ 立花宗茂残照』の主人公の宗茂をはじめ、伊達政宗、島津家久、細川忠興、家康の側室英勝院(お勝、お梶の方)、小堀遠州らが登場し、徳川幕府の礎が安定していく時代が活写されています。
元和から寛政にかけての大名たちの交流や生き様が面白く、「第二章 比丘尼屋敷のダイアローグ」では、家康亡き後落飾している英勝院が描かれていて興味深い章となっています。
タイトルの「遊びをせんとや」は、平安時代末期に後白河法皇によって編まれた『梁塵秘抄』で、もっとも知られている今様(当時の流行歌)のひとつ。「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん」は、「遊ぶ子どもの声聞けば 我が身さへこそ揺がるれ」と続きます。遊ぶ子どもの声を聞いて、つい大人の自分も声を合わせて体を揺らしてしまうという意味のほかに、遊女(あそびめ)の悲哀を表しているとも解釈されるそう。
歴史小説を通して、描かれている時代を知り、その時代に遊ぶ、そんな大人の読書が堪能できる小説です。
※羽鳥好之さんの「羽」は、正しい表記では「羽」となります。
遊びをせんとや 古田織部断簡記
羽鳥好之
早川書房
2023年11月25日発行
装幀:早川書房デザイン室
写真:empathy/PIXTA(ピクスタ)
●目次
序
第一章 遊びをせんとや
第二章 比丘尼屋敷のダイアローグ
第三章 これにて仕舞い
エピローグ
本文296ページ
■今回取り上げた本