『おイネの十徳』|馳月基矢|長崎文献社
馳月基矢(はせつきもとや)さんの、『おイネの十徳』(長崎文献社)は、シーボルトの娘で日本人女性として初めて西洋医学を学んだ産科医となる楠本イネの少女時代を描いた歴史時代小説です。
イネは、司馬遼太郎さんの『花神』や吉村昭さんの『ふぉん・しいほるとの娘』で歴史ファンにはお馴染みの人物ですが、私は1970年ごろに放送されたテレビドラマ「オランダおいね」で初めて知りました。当時はまだまだ小さくて詳細は覚えていませんが、オランダ人と日本人のハーフという設定だけが記憶に残っていました。
著者は、2020年に『姉上は麗しの名医』で、第9回日本歴史時代作家協会賞の文庫書き下ろし新人賞を受賞し、その後も江戸を舞台とした青春群像劇「拙者、妹がおりまして」や「蛇杖院かけだし診療録」シリーズで活躍する注目の時代小説家。
父シーボルトと別れて十年
高野長英が長崎に現れ、恩師の娘の前に立つ。川原慶賀の隠れ家を突き止めて二人で訪ねてみると……。
(『おイネの十徳』カバー裏の内容紹介より)
天保八(1838)七月、おイネ十二歳。
おイネの家である回船問屋の俵屋に、黒い紗でできた十徳姿の旅の医者がやってきました。
ところが、シーボルトと別れた後におイネの母のおたき(其扇)と一緒になった主の和三郎は、職人上がりで事情がわからずに困り果てていました。
そこで、おイネが店のほうに出ていくと……。
医者が、大きな口で、にぃっと笑った。
「ほう、こいつぁ驚いた。おまえさん、あの小さかったおイネだろう。今、確か十二だな? ずいぶん背が伸びたもんだ」
「あたしのこと、知っとっと?」
「ああ、もちろん。見間違えようもない。シーボルト先生の面影がある。その負けん気の強そうなふてぶてしい目つきなんか、そっくりだぜ」
(『おイネの十徳』P.33より)
幼い時に別れてほとんど記憶がないおイネは、俵屋に泊まることになった高野長英から父シーボルトのことを教えてもらいます。
そして、長崎にいる間に、長英の手伝いをすると申し出ました。
長英が長崎にやって来た目的は何だったのでしょうか?
おイネの協力を得て、その目的は果たすことができたのでしょうか?
「あたしは、おとしゃまのことば知りたか。オランダ語ば習いたか。ばってん、そげん言ったら、大人は困った顔ばする。あたしは黙るしかなかと」
「腹が立つだろ? くそくらえってもんだよなあ」
「オランダ語だけじゃなか。おとしゃまは、日ノ本の医者とは全然違うことができたとやろ? あたしは、その医術についても知りたか。学んでみたか。ばってん、そげん望みば人に言ったら、女の子のくせにおかしかって言われる。なして女の子が医術ば学んだらいけんと? あたしは、何でん知りたかとに」
(『おイネの十徳』P.53より)
女というだけで枠にはめられ、行動が制限された息苦しい時代に、おイネは声を上げます。
長英との出会いによって、おイネは父シーボルトの偉大さを知ります。そして、ある事件に遭遇して、本当にやりたいことに気づきます。
十二歳から十九歳まで、多感な時期のおイネの青春を瑞々しい筆致で描かれていき、その聡明さと行動力に胸を打たれました。
郷土の偉人に正面から向き合い、その生涯を描いていく試みを、「長崎游学」シリーズや「長崎偉人伝」シリーズなど、長崎に根差した出版活動をしている、長崎文献社から出しています。著者のチャレンジ精神と郷土愛も感じられました。
今年(2023年)は、シーボルト来日200周年だそうで、長崎市では記念イベントが行われています。
おイネの十徳
馳月基矢
双葉社 長崎文献社
2023年11月1日初版第1刷発行
表紙画:木村瞳子
デザイン:納富司デザイン事務所
●目次
序 おイネ、二つ
第一話 九連環と旅の医者
第二話 鳴滝塾と思い出の人
第三話 出島絵師と墓参り
第四話 産科の医術と精霊流し
終 おイネ、十九
本文277ページ
書き下ろし
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『姉上は麗しの名医』(馳月基矢・小学館時代小説文庫)
『おイネの十徳』(馳月基矢・長崎文献社)
『花神(上)』(司馬遼太郎・新潮文庫)
『ふぉん・しいほるとの娘(上)』(吉村昭・新潮文庫)