『女スパイ鄭蘋茹の死』|橘かがり|徳間文庫
橘かがり(たちばなかがり)さんの文庫書き下ろし長編小説、『女スパイ鄭蘋茹(テンピンルー)の死』(徳間文庫)を紹介します。
本書は、日中戦争下の中国・上海を舞台に、実在した女スパイ鄭蘋茹(テンピンルー)の謎の生涯を追った歴史サスペンスです。
太平洋戦争前の歴史の知識が乏しくて、本書に出合うまで、女スパイ鄭蘋茹(テンピンルー)のことを全く知りませんでした。
中国人の父と日本人の間に生まれた悲劇のヒロイン。
画像検索やWikipediaで検索すると、映画スターのような美貌に惹きつけられました。
著者は、2003年に「月のない晩に」で第71回小説現代新人賞を受賞し、著書には『判事の家』『焦土の恋“GHQの女”と呼ばれた子爵夫人』などがあります。
ジェスフィールド76号は、頻発する抗日テロに対抗し、日本軍が親日派中国人を傀儡として上海に設置した特務機関だ。主任は残忍で冷酷な丁黙邨(ていもくそん)。中国人の父と日本人の母を持つ鄭蘋茹は雑誌の表紙を飾る美貌を謳われる一方、祖国を憂う心にも満ちていた。国民党の工作員に引き抜かれた蘋茹は、黙邨に接近することに成功。だが党からの指令は非情なものだった。
(『女スパイ鄭蘋茹の死』カバー裏の紹介文より)
1937年、盧溝橋事件が発生して、第二次上海事件が勃発し、日中戦争へと拡大していく中で、花野吉平(はなのきちへい)は同年10月に上海陸軍特務部に勤務しはじめました。
軍属でありながら、一貫して反軍閥、反帝国主義を貫き、どうしたら停戦できるだろうかを模索することこそ、自らの任務と信じていました。
そして、陸軍省軍務局の会議で、対華政策を変更する新しい政治体制が必要で、まず日本の撤兵が大原則とまで、堂々と発言したこともありました。
この発言により、中国側から狙われる心配はなくなりなりましたが、日本軍からは要注意人物と見なされ、ついには憲兵隊に逮捕されて上海を追われたのでした。
吉平は、一年半ぶりに上海に戻ってきました。
それは、吉平が憲兵隊に拘留されている間に、処刑された鄭蘋茹の死の真相を突き止めるためでした。
誰もが恐れる「ジェスフィールド76号」主任の丁黙邨という危険人物に堂々と近づき、気に入られて愛人となり、暗殺を企てたと聞いたときには、耳を疑い、何度も聞き返した。目の前が真っ暗になった。そんな大胆なことができる人とは思っていなかった。吉平は蘋茹の一面しかみていなかったというのだろうか。
蘋茹はいったいどれほどの覚悟を持って、敵の懐に飛び込んでいったのだろう。国を思う一途な気持ちに気づけなかったのが悔しくてならない。(『女スパイ鄭蘋茹の死』P.52より)
吉平は、市内の高級住宅地にある鄭家を訪れて蘋茹の母親華君(ホアーチュイン)と面会しました。
最後に会ってから二年半しかたっていないのに、五十代半ばの華君はすっかり貧相な体つきに変わっていて、髪もほとんど白くなり、十も二十も老けてしまったように見えました。
華君から、娘がジェスフィールド76号に投降するため家を出る前の様子を聞き、吉平は必ず真相を突き止めてみせると思わず口走ってしまいます。
「またあの人のこと、考えているでしょう」
千恵子は朝から機嫌が悪い。
鏡を見ながら髪を梳き、眉をくっきり長く引いて、丁寧に濃い目のルージュを塗っている。小柄でほりの深い顔立ちの千恵子は、満映の専属女優・李香蘭に似ているとおだてられたことがあり、それ以来、李香蘭のブロマイドを見ては、メイクの手本にしているようだ。
(『女スパイ鄭蘋茹の死』P.81より)
千恵子は語学が得意で、今は海軍武官事務所で働いていて、吉平の恋人で、国外退去を命じられた吉平を見捨てずに待っていました。
蘋茹を同志だと思い込もうとしながらも、処刑の報を聞いた途端に胸の奥底に秘めていた恋情がにじみ出てきて、止めることができなかった吉平。
他にもやるべきことがたくさんあるはずと指摘されながも、蘋茹への思いを自分なりにけりをつけなければ、千恵子との将来に踏み出すことができない不器用な性分を、千恵子にうまく説明できずにいました。
上海に戻って、蘋茹の面影に頭の中を占領された吉平は、蘋茹処刑の真相を知るべく、関係者をめぐって話を聞きはじめます……。
序章で女スパイの処刑のシーンが描かれていて、読者は歴史的事実である、鄭蘋茹の死を知ります。
何故、蘋茹は、暗殺が目的とはいえ、多くの中国人同志を暗殺してきた丁黙邨の愛人にならねばならなかったのでしょうか。
良家の子女として、厳しくしつけ育ててきた母華君は、いったいどんな思いで娘を見つめていたのでしょうか。
父は、娘の行動を黙認していたのでしょうか。
吉平の調査をもとに、この魅力的な女性の謎に満ちた波瀾の短い生涯が明らかにされていく過程がスリリングで、物語に引き込まれていきます。
当時の首相で五摂家の筆頭である近衛文麿の長男近衛文隆やゾルゲ事件で知られる尾崎秀実ら、当時の著名人も物語に登場し、この時代の空気が伝わってきます。
戦争がもたらした苛烈な運命、その中で愛国心と情熱の狭間で揺れる一人の若き女性、鄭蘋茹と、信念を大切に愚直に生きる吉平に感動を覚えました。
多くの犠牲のもとに成し遂げられた平和であることを痛感し、絶対に戦争を起こしてはいけないと強く思いました。
ロシアのウクライナ侵攻が続き、東アジアの武力的な緊張が高まっている、世界がきな臭くなっている今だからこそ読みたい一冊です。
女スパイ鄭蘋茹の死
橘かがり
徳間書店 徳間文庫
2023年3月15日初版
カバーフォト:Adobe Stock
カバーデザイン:bookwall
●目次
序章 処刑の朝
第一章 再びの上海
第二章 鄭家の居間
第三章 洋館の料理人
第四章 路地裏のタンゴ
中統工作員 鄭蘋茹 第一の指令
第五章 隣家の女
中統工作員 鄭蘋茹 第二の指令
第六章 木枯らしの夜
中統工作員 鄭蘋茹 第三の指令
蘋茹、投降
終章 上海からの手紙
参考文献
本文283ページ
書き下ろし
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『女スパイ鄭蘋茹の死』(橘かがり・徳間文庫)