『天下大乱』|伊東潤|朝日新聞出版
伊東潤さんの長編歴史小説、『天下大乱』(朝日新聞出版)を紹介します。
歴史小説界の雄、伊東潤さんが、関ヶ原合戦を真正面面から取り上げた、渾身の歴史小説です。
これまでの歴史時代小説では、天下分け目の戦いを、戦場で直接対峙した家康と石田三成の対決として描かれることがほとんどでした。
昨今の歴史研究は新しい史料の発見などにより、これまでの定説が覆されたり、修正されたりすることも珍しいことではありません。
最新史料を駆使して日本史上最大の合戦をダイナミックに描く長篇歴史小説!!
(本書カバー帯の紹介文より)
慶長三年(1598)八月。
心神喪失に陥るほど病状が悪化し、死を覚悟した豊臣秀吉は、徳川家康を病床に呼びました。
秀吉は家康に、朝鮮半島からの撤退と死後に伏見で政務を執るように命じました。
そして、前田利家には大坂城で秀頼の後見をしてもらうことを告げ、奉行どもの沙汰はすべて、家康と利家、二人の決裁を経てから執行させると。
さらに、六歳で元服した秀頼と家康の孫娘の婚姻を進めるようにあらためて持ち出しました。
「承知しました」
「して、これは秘事中の秘事だが――」
秀吉の金壺眼が光る。
「はい。何なりと」
「そなたに天下を譲ろうと思う」
「えっ」
家康はわが耳を疑った。
(『天下大乱』P.13より)
秀吉は、家康に天下を引き継ぎ、秀頼が二十歳になったら、天下を返してほしいというのです。
「天下など要らぬ」
それが家康の本音でした。
天下を取った者は、いつか滅ぼされます。
家康の思惑は、豊臣家に取って代わろうというより、豊臣公儀の権力を分け合っている、ほかの大老と奉行を排除ないしは手なずけ、徳川家の脅威となり得る要素を減らすことでした。
秀吉死去の報せは、毛利家の輝元のもとにも届きました。
毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊のもとには、石田三成より、起請文が送られてきました。
「つまり、これは反徳川同盟ということだな」
「そうです。徳川殿が力を持てば、おそらく諸大名に難癖をつけ、天下の兵を率いて討伐に向かうでしょう。その矛先が、われらに向かぬとは限りません」
家康は諸大名の与党化を図る上で、領土という餌を投げる必要があった。そのためには、己に靡いてこない僻地の大名を豊臣家の名で当橋、その領土を取り上げ、与党に分け与えねばならない。(『天下大乱』P.22より)
実は毛利家中も、三成ら奉行集と親しい恵瓊に対し、養子の秀元と吉川広家は家康に近い立場にあり、そこには複雑な事情がありました。
輝元は秀元を抑えるため、反徳川同盟を結びました。
秀吉の死から一ヶ月。
早急に与党を固めるため、伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政との縁組を進めた家康に対して、三成は太閤殿下の遺言を破ったと非をあげつらい、豊臣政権のかじ取りをめぐる対立は深まるばかり。
物語では、関ヶ原合戦に向かって、着々と手を打つ徳川側と、豊臣政権の維持安泰を第一に考える三成と勢力拡大の機会を虎視眈々と狙うを毛利輝元の同盟軍の動きが、リアルに綴られていきます。
とくに、家康に通じる吉川広家や後継で不満くすぶる毛利秀元など毛利家の抱える問題や、合戦の遥か後方の大坂城にいて、豊臣政権の玉である秀頼を握る、西軍の総大将、輝元の心情と言動が物語の興趣を高め、豊臣公儀のまつりごとの首席を決める関ヶ原合戦へ引き込まれていきます。
合戦の結末は歴史小説の宿命なので変えられませんが、そこまでの過程や舞台裏は、最新の史料や研究成果を駆使して、大胆に構築することで、著者は現代人が読んで納得し堪能できる人間ドラマにしています。
三成ではセンチメンタルに傾きがちになるところを、毛利輝元を一方の軸に据えたことで、重厚で緊張感みなぎる心理戦になっています。
この関ヶ原の戦いも、豊臣から徳川への政権奪取ではなく、そのための準備段階として、豊臣政権内での首班争いで、それに乗じて領土拡大もしくは領土保全を目指す大名たちの戦いと見ることができそうです。
本書を読むと、歴史小説というのは、今を映す鏡のような性質があることに気づかされます。その時代に生きる読者側が、その時代における合理的で共感できる物語を求めていて、作家はそれに十分こたえてくれています。
昭和の時代に司馬遼太郎さんの名作『関ヶ原』があったように、令和の時代を代表する関ヶ原小説が誕生しました。
天下大乱
伊東潤
朝日新聞出版
2022年10月30日第一刷発行
装画:ヤマモトマサアキ
装幀:芦澤泰偉
図版:谷口正孝
●目次
第一章 権謀術数
第二章 虚々実々
第三章 乾坤一擲
第四章 乱離骨灰
本文523ページ
本書は、「週刊朝日」2021年2月19日号~2022年3月25日号に掲載されたものを単行本化に際して加筆修正したもの
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『天下大乱』(伊東潤・朝日新聞出版)
『関ヶ原(上)』(司馬遼太郎・新潮文庫)