『鬼女』|鳴海風|早川書房
鳴海風さんの長編歴史小説、『鬼女(おにおんな)』(早川書房)を紹介します。
著者は、1991年に、天才和算家関孝和に師事し、円理を究めた高弟建部賢弘の生涯を描いた「円周率を計算した男」(同名で単行本・文庫化後に、二次文庫化に際して『和算の侍』に改題)で、第16回歴史文学賞(主催新人物往来社)を受賞しました。以来、江戸時代の数学をテーマにした和算小説を発表してきました。
会社員のかたわら執筆をされたため寡作ながらも、和算小説の第一人者として、2006年度に日本数学会出版賞を受賞されています。
「将軍家に尽くすべし」という会津藩『家訓』や「ならぬことはならぬものです」という『什の掟』の厳格な教え、それに従い、利代は九歳の駿が数学に打ち込みたいのを知りつつも、会津武士として厳しく育てた。
やがて尊王攘夷が倒幕へ傾き、長が官軍と称して会津に押し寄せる中、十六になった駿は白虎隊に身を投じる。利代は駿に死ぬ覚悟をつけさせるべく、己のなぎなたで徹底して稽古をつける。藩主のために命を捨てろと、利代は心を鬼にして我が子を戦いに送り出すが……。会津に生きた母と息子の強いきずなと鎮魂の物語。(カバー袖の説明文より)
文久二年(1862)三月半ば。
利代(りよ)は、十歳の息子駿(しゅん)を、会津藩の藩校日新館に入門させたいと思っていました。
会津では日新館に入学以前の六歳の子どもの頃から、『什の掟』を徹底して叩き込まれ、子どもらは毎日、掟に背いた者がいないかを確かめ合っていました。
『什の掟』を破ったとはいえ、酌量の余地はあったし、相手はまだ六歳ではないか。それらを考慮せず、いきなり竹邊らを提案するような駿だったら我が子ではない。利代は、駿の優しさをほめてやりたいくらいだった。
「でも、母上、ならぬことはならぬのでございましょう?」
「それはそうですけれど……」
利代は口ごもった。駿へ向けたまなざしが柔和だったからだろう。つきたての餅のようになめらかな駿の口元が、ほころんだ。それを見て、利代もつい笑顔を返してしまった(『鬼女』P.13より)
二本松の町医者の家から、会津藩の物頭三百刻石の木本家に嫁いだ利代は、病弱で年齢よりも幼い駿に愛情を降り注ぐ一方で、武家の跡取りとしてどのように育てるべきか、思い悩んでいました。
それは、ひと月前に、利代の子育てにまったく口出しをしなかった姑多江が我慢できずに、「武家の跡取りを、厳しくたくましく育てるのは、母親のつとめ」と利代を叱責したからでした。
かつて家老を出したこともある家から木本家に嫁した姑は、気位が高く、筋を通してけじめを重んじる人。息子で利代の夫の新兵衛も、多江によって文武両道に優れた会津武士に育て上げられたのです。
慶応四年(1868)一月三日に鳥羽伏見の戦いが始まり、四日には新政府軍側に錦旗が掲げられ、旧幕府軍は朝敵とされると、すべての方面で旧幕府軍は敗退しました。徳川慶喜に引き連れられて大坂城を抜け出した会津藩主松平容保が会津に帰ってきたのは二月二十日のこと。
朝廷に対して恭順の意を示すため謹慎した慶喜の意向に沿って謹慎をする容保でしたが、京都守護職をつとめた会津藩だけに汚名を着せられたことから、雪冤と武備恭順に方針を変えて、会津藩は戦時体制に入ります。
十六歳になった駿は、容保や若殿の喜徳の護衛を主とする白虎隊の所属となりました。
「利代も、本心は、いくさを避けたいのではないか」
利代は、即座に夫の手をはねのけ、向き合って、きっぱりといった。
「私はなぎなたを持って戦います。駿も梶之助様と同じように戦うでしょう。それが会津武士の生き方です。死に方です。私も会津武士の母として戦い、そして死にます」(『鬼女』P.292より)
利代は、六年あまりの月日のうちに、武家の母としての心得を身につけ、会津藩の女たちとなぎなたの稽古に励み、我が子を戦場へと送り出しました……。
安達ヶ原の鬼婆伝説を想起させるタイトルや会津藩の辿った歴史から、悲劇性のあるストーリー展開を予想したにもかかわらず、再起と救いに満ちた清涼感のある物語になっています。
母利代が生来の厳しい武家の女ではなく、悩み惑い失敗しながらも、次第に会津の母になっていくところがしっかりと描かれています。
その一方で、息子駿を、武士として修得すべき儒教の学問や槍術の稽古ばかりしている秀才ではなく、天文や数学に惹かれ、母に隠れて大好きなことに熱中する等身大の理系少年として扱われている点も物語に奥行きを与えることに成功しています。
母と子の強いきずなの物語です。
他の登場人物たちもみな魅力的。
出戻りの小姑ながら、駿を可愛がり、利代の良き相談相手となる千鶴。会津の武士の女を体現しながらも、時折耄碌の傾向がみられる夫への優しさを見せる姑多江。
さらに、武士らしくないと数学を嫌悪する多江の陰でこっそりと、駿に和算書『新編塵劫記』を与えて数学の世界に引き込んでしまう、舅の三郎右衛門など、母子を取り巻く人たちも個性的ながらも血の通った人物として生き生きと描かれ、読後に心地よい余韻を残す、読み味の良い幕末小説になっています。
3,190円と高めの定価となっていますが、450ページの長編でボリュームもあって読み応え十分で、幕末小説として楽しめ、和算小説としても楽しい傑作です。
鬼女
鳴海風
早川書房
2022年9月25日発行
装幀:中島かほる
装画:長谷川雄一「新涼’17」(c)The Tolman Collection
●目次
序章
第一章 武家の嫁
第二章 武家の女
第三章 武家の母
第四章 鬼女
終章
あとがき
主な参考文献
本文451ページ
書き下ろし
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『鬼女』(鳴海風・早川書房)
『和算の侍』Kindle版(鳴海風・新潮文庫)