『奥州戦国に相馬奔る』|近衛龍春|実業之日本社文庫
近衛龍春さんの長編歴史小説、『奥州戦国に相馬奔る』(実業之日本社文庫)を紹介します。
福島県南相馬市で、毎年7月に、相馬野馬追(そうまのまおい)が行われます。約四百騎の甲冑に身を固めた騎馬武者たちが、野原を疾走する勇壮な時代絵巻さながらの神事です。
平将門が下総国小金原で行っていた軍事訓練をルーツといわれ、鎌倉時代以降、現在も続いています。明治の廃藩置県までは、将門の末裔である相馬氏が、神事化して公式に行っていました。
本書は、奥州相馬氏第十六代当主で、戦国時代から江戸時代初期を生きた武将、相馬義胤を主人公にした、長編歴史小説です。
平将門以来の名門・相馬家の当主となった義胤。自慢の騎馬兵を従え、近隣の敵・伊達政宗の度重なる侵攻にも耐え抜き、厳しい領国経営に奮闘する。関ヶ原後、息子・利胤とともに改易をもくろむ徳川家康の圧力をも切り抜けるが、未曾有の大地震と大津波が二度にわたり襲いかかり――戦国時代を生き抜いた、小国・相馬の不屈の戦いを描く歴史巨編!
(カバー裏面の説明文より)
天正十三年(1585)、平将門の末裔で南陸奥相馬の領主・相馬義胤は、三十八歳。相馬家は、馬の繁殖から飼育、騎乗による戦闘に至るまで、馬の扱いでは日本一であることを自負し、自慢の騎馬兵を有していました。義胤自身も馬上からの弓が得意で、鑓や剣術にも長けていました。
小国ながらも、北の強国伊達政宗から度重なる侵攻にも耐え抜き、南に位置する常陸の佐竹家を盟主とする反伊達軍に属しながら、厳しい領国経営に奮闘していました。
天正十六年(1588)新年に、奥両国惣無事令が、秀吉の奉行を務める富田知信の使者により、届きました。
「奥羽のことは上方にも伝わってござろう。米沢には梟雄がおり、周囲の者は迷惑してござる。万が一、領国を留守にしようものならば、たちまち攻め取られ、帰る城がなくなり申す。彼の者が絶対に当領を侵さぬ確約を得るか、同行でもせねば、上洛は叶わぬのが実情でござる。おそらく似たようなことを周囲の諸将も申しているはず」
「確かに伊達の横暴はよく耳に致すが、これは関白殿下の下知にて、従わねば朝敵になり申す。早々に上洛なされるが、貴家のためにござるぞ」
(『奥州戦国に相馬奔る』P.80より)
天正十七年十二月、今度は、伊達との領土争いの渦中に、関白秀吉の北条討伐の軍令が届きました。
義胤は小田原に遅参する失態を犯し取り潰しの危機に遭いますが、石田三成の執り成しによって助けられました。
しかしながら、それが徒となって関ヶ原の戦いでは、三成への恩義から徳川方に与せず、改易に処せられてしまいます……。
「畏れながら、内府様に二十でも三十でも合力の兵を送ってはいかがでしょう」
水谷胤重が義胤に進言する。
「親類の佐竹、岩城、恩ある治部殿を足蹴にし、儂に不義を働けと申すか」
(『奥州戦国に相馬奔る』P.271より)
息子利胤と改易の撤回を運動し、四万七千余石を取り返すことに成功しますが、今度は二度にわたる大地震と大津波が相馬領に襲いかかりました。
多くの領民や牛馬が溺死し、領内の田畑の半分近くが潰されました。
瞬く間に海岸線はどす黒くなった海水で消滅し、相馬の地を侵しに侵す。領民が丹精込めて作った田畑を踏み潰し、森林を問答無用で踏み倒し、家屋を打ち壊し、厩を侵食し、牛馬を一飲みにする。
津波は飲み込んだものを咀嚼するように捻り潰し、人や牛馬は原形をとどめていない。
(『奥州戦国に相馬奔る』P.11より)
東日本大震災にも匹敵する大災害・慶長大地震がリアル描かれていて、目を奪われました。義胤の相馬家がどのようにして、大災害から復興していったのかも、大いに気になるところです。
豊富の文献資料をもとに、小大名相馬義胤の不屈の生涯と、将門の子孫としての矜持、戦国武将としての義が、丹念に描かれていき、歴史小説の醍醐味が堪能できます。
奥州戦国に相馬奔る
近衛龍春
実業之日本社 実業之日本社文庫
2020年12月15日初版第1刷発行
カバーデザイン:鈴木正道(Suzuki Design)
カバーイラスト:ヤマモトマサアキ
●目次
序章 海嘯
第一章 神速の相馬騎馬兵
第二章 伊達と佐竹と
第三章 三十倍の敵
第四章 関白豊臣秀吉
第五章 家康か三成か
第六章 疾駆せぬ駿馬のつけ
第七章 家運を賭けた存続交渉
第八章 慶長大津波
第九章 大津波再び
第十章 老将の遺言
本文488ページ
文庫書き下ろし。
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『奥州戦国に相馬奔る』(近衛龍春・実業之日本社文庫)