『赤い風』|梶よう子|文春文庫
梶よう子さんの長編歴史時代小説、『赤い風』(文春文庫)を入手しました。
柳沢吉保は、五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて側用人から大名に出世し、元禄時代には大老格として幕政を主導しました。
時代小説では、極め付きの悪役や黒幕として描かれることが多い憎まれキャラクターです。
そのせいか、あまり良いイメージを持っていなかったのですが、本書で、元禄時代に川越藩主として、現在の所沢市から三芳町に広がる「三富新田(さんとめしんでん)」の開発を行ったという行政面での業績を知りました。
武蔵野原野は赤土で水源に乏しく、田畑は拓けない。秣場に利用する村々の争いを止めるため、川越藩主柳沢吉保は荒野の開墾を命じる。だが、家老の嫡男・啓太郎は、侍を憎む百姓の正蔵と衝突、互いに反目して計画は進まない。二年の期限が迫るなか、下役人が不審な死を遂げて……。大地に生きる人々の歴史長編。
(『赤い風』カバー裏の紹介文より)
貞享二年(1685)、冬。
武蔵野台地の原野は、萱や、ブナやナラの木などが原生し、水源から遠いうえに、軽い赤土で水はけが悪く、田にも畑にもできず、ずっとずっと昔から手つかずのままでした。
この原野周辺は、川越藩領や幕府直轄領、旗本の知行地など複雑に入り組んでいて、領外の村々も、牛馬の飼料や堆肥のための草、屋根葺きの萱などを採取する秣場(まぐさば)となっていました。
入会地と呼ばれる共有地は、秣場の利用をめぐって他領の村同士の争いが頻発していて、武装した男たちに襲われてけがを負う者も出るまでになりました。
赤い風が吹き付けるなか、十歳の正蔵は、父親の吉二郎に連れられ、枯れ木や枯れ草を集めるために、秣場に出かけました。
ところが、二人は笠を着け、顔を隠して、手には棒切れを持った五人の男たちに襲われ、集めた煮炊き用の薪を奪われました。正蔵を守ろうとした吉二郎は、棒切れでしこたま殴られたことがもとで命を落としました。
川越は、江戸よりわずか八里強(約三十二キロメートル)、その昔は北に備える江戸の要衝地であった。いまは盛んになった舟運によって農作物、材木などが川越を通じて江戸に上がってくる。重要な地であることに変わりhない。
「さりとて、こう百姓どもの騒動が続いてはのう。もしや、出羽守さまのご手腕を上さまはお試しになっておられるのか?」
いやいや、と稲生が扇子を閉じ、口許に当て声をひそめた。他の七人が頭を寄せる。
「出羽守さまは、なんといっても上さまのお気に入り、此度の入封は、大大名への足掛かりにすぎぬとの噂だ。これまで川越藩を治めてきたのは皆、重臣ばかりだ」
(『赤い風』 P.48より)
元禄七年(1694)一月、将軍綱吉は、松平伊豆守信輝を下総古河藩へ移封し、側用人をつとめる柳沢出羽守保明(のちの吉保)を武蔵川越藩へ入封させました。
同年年(1694)六月。
再び武蔵野の秣場騒動が持ち上がりました。
川越藩の開拓が一向に止まぬ上、秣場の縮小に危機感を覚えた北武蔵野周辺の村が、またも川越藩の野守(入会地の利用料を徴収する管理人をつとめる土豪)を訴えました。
江戸の評定所では勘定奉行、寺社奉行、江戸の町奉行の計八名による評定が行われていました。
川越藩主となった柳沢保明は、川越藩領の村と周辺の村が争っている原野を畑地として開発することを命じました。
「余が保明じゃ。此度の裁許、お主らの努力が実った。嬉しい限りだ。そこで、お主にはさらなる努力をしてもらいたい。立野の開拓だ。後世に残る、川越が誇る畑地を拓きたい。赤い風が舞うというその地を豊かなものへと変えるのだ。その地を――」
保明は高らかにいい放った。
「三富新田と名付ける」(『赤い風』 P.121より)
この時から、川越藩領の名主武左衛門ら四人と、川越藩家老曾根権太夫の嫡男・啓太郎らは、新田開拓に従事していきます。
そして、開拓する新しい村に入る入植者を募ると、その中には、秣場の諍いで父を喪った正蔵がいました。
北武蔵野の大地を舞台にした、骨太の歴史時代長編に魂を揺すぶられます。
赤い風
梶よう子
文藝春秋・文春文庫
2021年4月10日第1刷
イラスト:浅野隆広
デザイン:征矢武
●目次
第一章 秣場
第二章 国替え
第三章 三富
第四章 黒鍬
第五章 付け火
第六章 富と福
解説 福留真紀
本文391ページ
初出:「埼玉新聞」2017年6月~10月連載
単行本:『赤い風』(文藝春秋・2018年7月刊)
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『赤い風』(梶よう子・文春文庫)