『天離り果つる国 上・下』|宮本昌孝|PHP研究所
宮本昌孝さんの長編歴史時代小説、『天離り果つる国(あまさかりはつるくに) 上・下』(PHP研究所)を紹介します。
江戸以前、岐阜県は美濃国と飛騨国に分かれていました。
律令制に基づく地方行政区分「令制国」の国力による分類では、美濃は四段階(大国・上国・中国・下国)の上から二番目の「上国」、飛騨は一番下位の「下国」とされていました。
戦国時代の美濃は、斎藤道三が統一し、明智光秀が生まれ、織田信長も居城を移したことで、歴史の檜舞台で脚光を浴びる地でした。
ところで、戦国時代の飛騨を治めていた領主は誰でしょうか?
岐阜に地縁があったり、歴史に精通していたり、バックグラウンドをもっていないとすぐに答えは出てきませんね。
私も、2016年に、月刊文芸文庫の「文蔵」に、「天離り果つる国」の連載が始まるまで、道三が飛騨も治めていたと思っていました。
ところが、美濃と飛騨は山に隔てられた別の国で、飛騨は内ケ嶋(うちがしま)氏と三木(みつき)氏(後に姉小路氏を名乗る)らがそれぞれの領地を治めていました。
飛騨山脈など山に囲まれた飛騨国でも、白川郷は鳥獣しか棲まない人跡未踏の秘境と考えられていて、庄川で隔てられている越中の五箇山とは、人的な交流があり、同じ文化圏にありました。
「どのような城だろうなあ……」
美男が、澄んだ山の気をたっぷり吸ってから、期待感に満ちた一言を、一緒に吐き出した。
「かような天離る鄙の地に、まことに城など築かれているのだろうか」
十助の言う“天離る鄙の地”とは、空の彼方に遠く離れた辺境の地という意である。(『天離り果つる国 上』 P.30より)
「天離る(あまさかる)」は、天遠く離れている地の意から、「鄙(ひな)」にかかる言葉で、万葉集にも歌われています。さらに、「果つる」と付き、都人からすれば、秘境の国といったところでしょうか。
近世より前の、飛騨・白川郷のイメージです。
物語は、この地を武芸修行中の若き軍師・竹中半兵衛と従者の十助が訪れたところから始まります。
二人は、山の中で偶然見つけた山荘で、刺客に襲われながらただ一人生き残った赤子を見つけて連れ帰りました。
赤子は七龍太と名付けられ、十助の子として育てられました。
十歳にして、十助に武芸、狩猟、農事などを実践で鍛えられ、半兵衛に兵法兵術の理も含めて学問すべてを仕込まれました。
半兵衛が木下藤吉郎に仕えることに決まり、一緒に岐阜城に参上した七龍太は、天女のような姫、市姫(後のお市の方)と出逢いました。
半兵衛は織田信長に謁見した際に、藤吉郎の家臣となって一年後に信長を上洛させることを約束し、信長は七龍太を妹の市姫付きの御小姓とすることを申しつけました。
七龍太はその後の武勲により、信長より一門である、津田を称することを許され、津田七龍太と名乗ることとなります。
白銀の山の斜面に、雪煙を舞い上げながら、うねうねと曲線を描いて滑降するものが見える。
一瞬、巨大な蛇に見えたが、そうではない。たくさんの茅を縄で括って束にし、その束を三つ繋いだものである。
真ん中の束に、人が跨っている。橇とよぶには、あまりに危険な乗物と言わねばならない。
藁沓の底を突き出し、蓑に風を孕んで、禿の髪を靡かせ、奇声を発しているのは、童女であった。まるで山猿である。
(『天離り果つる国 上』 P.37より)
永禄十三年の二月。
じゃじゃ馬の紗雪が危険な橇遊びに興じていたころ、父で領主内ケ嶋氏理(うじまさ)のもとに、将軍足利義昭を奉じて上洛し、畿内・近国の支配圏拡大を続ける織田信長から、上洛要請の触状が届きました。
内ケ嶋氏が治める、飛騨国大野郡の北西部に位置する白川郷は、高き山に囲まれて他国とは分断された国である飛騨のなかで、さらにまた山嶺によって閉ざされていて、米もろくに穫れぬ土地で、侵攻したところで、労を多くして益少なしと軽視されていました。
その居城の帰雲城(かえりくもじょう)は、雲があたって帰されてしまうほどの高山に築かれた城という意味で名付けられて、飛天の城とも呼ばれていました。
氏理には、愛娘の紗雪のほか、正室茶之との間に夜叉熊と亀千代の二人の男子がいました。茶之は、北国の一向一揆の重要拠点である越中礪波郡井波の瑞泉寺の息女で、内ケ嶋氏は一向宗との共存共栄を図ってきました。
秘境の地である白川郷は、米はろくに穫れない代わりに、金山、銀山が複数存在し、鉄炮に必要な黒色火薬の原料となる塩硝を取れる地でした。
内ケ嶋氏は、その大半を本願寺と全国の一向一揆衆に密かに提供していました。
天下の覇者へと邁進する信長は、内ケ嶋氏を織田に属するようにするべく、津田七龍太を白川郷に送り込みました。
反発しながらも、七龍太に惹かれていく紗雪。
織田と一向宗の間で揺れる、内ケ嶋家。
竹中半兵衛の愛弟子である七龍太が発揮する軍略の冴え。
戦国模様が沸騰する中で、天離り果つるも風雲急を告げる事態が起こります。
織田信長の後継者となるも、恋い焦がれてきたお市を手に入れることができなかった秀吉は、怒りの矛先を津田七龍太に向け、その処刑を黒田官兵衛に命じる。一方、徳川家康の支援を仰ぐべく、真冬の立山連峰越えに挑む猛将・佐々成政の前に、内ケ嶋の姫が現われ……。
秀吉・家康らが虎視眈々と狙うなか、天離る地の小国は、生き残れるのか。
(『天離り果つる国 下』カバー帯の紹介文より)
本書は、「起承転結」の物語構成に沿って描かれていきます。
起と承に当たる上巻では、物語のスケールの大きさと多彩な登場人物の描写に魅せられます。
とくに、本願寺の坊官の下間頼蛇(しもつまらいじゃ)のキャラクターが濃くて面白く、物語全体にアクセントを加えています。
半兵衛の死に立ち会い、出生の秘密を知った七龍太。
一方の紗雪は佐々成政に見初められ、内ケ嶋家に縁談が持ち込まれました。
「転結」に当たる下巻では、信長に代わり、権力者となる秀吉が七龍太と内ケ嶋家の前に巨大な壁として立ちはだかります。
敵が強ければ強いほど、物語は面白さを増していきます。
「筑前を殺すまで、おらちゃは死なん。何をされようと、生きつづけてやる」
血を絞り出すような紗雪の不退転の覚悟に、圧倒された。
(わしも紗雪に負けぬ。いかなる艱難辛苦も乗り越えてみせる)
成政は、振り返った。
主君のようすから揺るぎない決意の伝わった家臣たちは、おのずから平伏する。
「あの山を越えようぞ」
(『天離り果つる国 下』 P.115より)
やがて、秀吉と対立した成政は、援兵を求めて真冬の立山連峰越え(さらさら越え)に挑みました。
物語はさらに大きく展開していき、主人公たちへの共感が一層高まっていきます。
史実や伝承を押さえながら、ロマンに満ちた壮大なストーリーに、ページを繰る歓びと興奮が続く、飛び切りの歴史エンターテインメントになっています。
戦国飛騨・白川郷の歴史について、著者は、『歴史街道2020年12月号』で4ページにわたって解説をしており、本書の歴史背景を知るうえで興味深い読み物となっておりました。
天離り果つる国 上・下
宮本昌孝
PHP研究所
2020年10月22日第1版第1刷発行
装幀 芦澤泰偉
装画 大竹彩奈
●目次
上巻
飛天の城
紅菊の女
覇者の手
政教の罅
信長の使
恋風の起
叡山の怨
安土の猜
風雲の会
辺土の虚
共生の郷
父娘の謀
艶絶の笑
怨笛の譜
雪裡の談
師表の卒
離愁の刻
本文413ページ
下巻
偏愛の越
富山の変
驚殺の晨
旭日の猿
龍虎の間
不図の道
白魔の真
宿昔の契
制覇の跫
棕櫚の剥
存亡の秋
無常の嵐
生生の光
本文410ページ
初出:月刊文庫『文蔵』2016年7月号から2019年12月号の連載に、加筆・修正したもの。
■Amazon.co.jp
『天離り果つる国 上』(宮本昌孝・PHP研究所)
『天離り果つる国 下』(宮本昌孝・PHP研究所)
『歴史街道2020年12月号』(PHP研究所)