『日本橋本石町やさぐれ長屋』
宇江佐真理さんの時代小説、『日本橋本石町やさぐれ長屋』(講談社文庫)を入手しました。
本書は、日本橋本石町の裏店(長屋)を舞台にした、そこに暮らす住人たちの日常を描いた、短篇連作形式の時代小説集です。
2015年11月に乳がんで亡くなった著者が遺した作品で、最新の文庫化作品です。
日本橋の裏店に集う、一癖もふた癖もある住人たち。堅物の大工・鉄五郎、気の強い出戻りのおやす、老母の面倒に悩むおすぎ、旦那が仕事場から帰ってこなくなったおとき。貧乏でお節介な老若男女が不器用に生きる。すると、長屋の取り壊しが決まり――市井物を得意とした著者が遺してくれた傑作連作短編集。
(カバー裏の内容紹介より)
「何でやさぐれなんだ? お前ェ、やさぐれの意味を知ってんのか、こら」
鉄五郎が金助に詰め寄ると、周りにいた客は、鉄ちゃん、それぐれェで勘弁してやんな、と止めに入る。いいや、勘弁ならねェ。鉄五郎は片膝を立てた。
褒めておいて、おやすは最後にからかいの言葉になった。
「いいか、やさぐれってのはヤサに居着かず、仕事も持たねェ半人前の奴を指す言葉だ。はばかりながら弥三郎店にゃ、そんな奴は一人もいやしねェ。あまり舐めた口は利かねェで貰いたいもんだ」(『日本橋本石町やさぐれ長屋』「時の鐘」P.9より)
日本橋本石町(にほんばしほんこくちょう)の長屋・弥三郎店に住む、鉄五郎は二十四歳で、女房はまだいない、手間取りの大工です。
毎月そこそこの銭を稼ぎ、女房を貰って養っていけるのですが、どうもその気になれません。また、律義で真面目で理屈っぽい性格から、周囲とぶつかることも多くありました。
物語の舞台となる、日本橋本石町は、江戸市中に時刻を知らせる時の鐘があることで知られる町です。
時の鐘は江戸城を取り囲むように9か所(時代によって設置場所と個数に変化がありましたが)に設置されていました。
鉄五郎は時の鐘が好きだった。毎日、毎日、雨の日も嵐の日も正確に時を告げる。いい加減なことが多い世の中で、時の鐘だけが鉄五郎が信頼できる唯一無二なものだった。
(『日本橋本石町やさぐれ長屋』「時の鐘」P.17より)
鉄五郎はその日も住まいのある弥三郎店の近くの莨屋(たばこや)の前で、暮六つを知らせる時の鐘に、「ああ、京も無事に一日の仕事が終わった」と安堵を覚え、その音に聞き惚れていました。
そんな鉄五郎に「時の鐘がそれほど好きなのかえ」と声を掛けたのが、莨屋で働く美形だが小意地の悪そうな娘・おやすでした。
鉄五郎はからかわれたと思い、癇に障りぞんざいに言葉を返してむっとしてその場を離れましたが、おやすのことが気になりました……。
本書では、鉄五郎やおやすのように不器用ながらも真面目に日々を懸命に生きる、弥三郎店の住人たちが登場します。裏店の人々の日常の営みが描かれていきます。
暮らしの中で起こる、ちょっとした事件や、人と人との交わりから生まれていく人情が描かれていて、現在の生活ですり減った心に、優しい癒しと潤いをもたらしてくれます。
日本橋本石町やさぐれ長屋
著者:宇江佐真理
講談社文庫
2020年3月13日第一刷発行
2014年2月、講談社刊の単行本を文庫化したもの
カバー装画:北村さゆり
カバーデザイン:加藤愛子(オフィスキントン)
●目次
時の鐘
みそはぎ
青物茹でて、お魚焼いて
嫁が君
葺屋町の旦那
店立て騒動
本文278ページ
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『日本橋本石町やさぐれ長屋』(宇江佐真理・講談社文庫)