人魂騒動、天狗暗躍、遊女失踪…、幕末の品川宿擾乱
集英社文庫より刊行された、池寒魚(いけかんぎょ)さんの文庫書き下ろし時代小説、『ひとだま 隠密絵師事件帖』を紹介します。
著者の池寒魚(いけかんぎょ)さんは、年齢、出身地ともに非公開の覆面作家。2018年4月に、文庫書き下ろし時代小説『隠密絵師事件帖』でデビューしました。
品川宿に暮らす売れない絵師で旅籠の用心棒を務める司誠之進を主人公にした幕末時代小説の第二弾です。
安政7年。大老井伊直弼が桜田門外に斃れ、幕府終焉の予感に満ちる江戸・品川宿。鋳掛屋の利助は長屋でひとだまを見たという。絵師で用心棒の誠之進は、師・河鍋狂斎と共に真相解明に乗り出すが、「天狗」と称する刺客に襲われる。怪談から攘夷派の陰謀へと、事態は俄かにきな臭さを帯び……。
「腹ぁ減ったなぁ」
悪罵も底を尽き、ぼやきになって井戸のそばまで行ったとき、うしろでぽんと鈍い音がした。
ふり返る。
目の前に白く輝く球が浮かびあがり、ゆっくりと空へ昇っていく。周囲が真昼のように照らされていた。
利助は口をぽかんと開け、光の球を見つめていた。
(『ひとだま 隠密絵師事件帖』P.17より)
三十歳に鋳掛屋の利助は、博打で負けて帰った真夜中、長屋で不思議なひとだまを目にしました。
絵師で旅籠の用心棒を務める司誠之進(つかさせいのしん)は、口入屋を営むかたわら、南町奉行所の同心の手先を務める藤兵衛に呼び出されて、誠之進の師の河鍋狂斎とひとだまの真相を明らかにしてほしいと依頼されます。
河鍋狂斎(後の暁斎)は、観音様や地獄や幽霊などを描いていて、怪異に詳しいと思われていました。本書のカバー装画に使用されている『幽霊図』も狂斎の作品です。
「天狗」
誠之進は駆けだした。人影が飛びこんだ長屋の角を回りこむ。
直後、黒い影が遅いかかってくる。そのときには提灯を捨て、腰の後ろに差したキセルを抜いていた。
まだ周囲はひとだまの光で明るい。相手が胸ほどの高さを持った太刀を突いてくる。キセル筒で払った。
火花が散る。
刀を突きだしたまま、相手が躰ごとぶつかってくる。汗と垢の臭いがむうっと誠之進を包んだ。
(『ひとだま 隠密絵師事件帖』P.43より)
狂斎や兄弟子の鮫次、藤兵衛の子分の与吉らと、利助の長屋にひとだま見物に出かけた誠之進は、「天狗」と名乗る刺客に襲われます。しかし、現場で同士討ちで死んだ刺客は、浪人者でした。
「あれかね、誠さん」
「どうかな」キセル筒を腰の後ろに戻し、誠之進は首をかしげた。「そうだとしても与吉がいうように自ら名乗るかな」
藤兵衛のいうあれとは、水戸藩前藩主斉昭ゆかりの者たちを指す。藩士だけでなく、お抱えの学者、脱藩浪人、逃散百姓、商人と幅広い層が天狗党と呼ばれ、自称していた。(『ひとだま 隠密絵師事件帖』P.46より)
物語に描かれているのは、水戸脱藩浪士たちを中心とする一団が井伊大老暗殺を実行した安政七年(一八六〇)の夏です。天狗は水戸浪士を指す異名であり、大老暗殺後、天狗の名を借りて、辻斬り、強盗、押借り、火付けなどで世情を騒がせていました。
「儂は隠居の身だから世情にはうとい。だが、隠居であるがゆえの傍目八目もある」
藤代がうながした。
「東海殿はどのように見ておられますか」
「ひとだまのからくりや、誰がやったかなどわからん。ただ儂には萩毛利家と水戸徳川家がよく似ているように思われてならん」(『ひとだま 隠密絵師事件帖』P.99より)
誠之進は、かつて磐城平藩の江戸藩邸で藩主の側用人を務めて、今は隠居の身の津坂東海の元を訪れます。磐城平藩藩主安藤対馬守は筆頭老中として、大老亡き後の幕政の混乱の収拾に当たっていました。
誠之進は、父と同席する公儀横目付の藤代に、品川宿で起こったひとだま騒ぎを報告し、ひとだま騒ぎと天狗による火付けの裏に、尊皇攘夷派の影をかぎ取ります……。
「白い鴉はあたしに似ているといわれました。それと絵を描いた御仁は剣を使うだろう、ひょっとしたら人を斬ったことがあるかも知れないとも」
誠之進は何とも答えず盃を空け、汀に渡して徳利を持ちあげた。
「一度会ってみたいともいわれてました。腹中に鬼を飼い慣らされている御仁はまことに希有だといわれて」
盃を満たし、徳利を置く。
腹中の鬼といわれて誠之進はほろ苦く思った。
決して飼い慣らしてなどいない。ときに冷たく黒い憤怒が湧きあがるのだが、自分ではどうすることもできずにいた。人を斬ったこともある。何者であれ、どのような理由であれ、殺めれば、おのれの深いところが荒む。(『ひとだま 隠密絵師事件帖』P.122より)
誠之進は、品川宿で食売女を置く旅籠大戸屋で一番の遊女・汀(みぎわ)に、かつて依頼されて白い鴉の絵を描いたことがあり、以来、汀から呼び出されることが度々ありました。
本書に惹かれるのは、主人公の誠之進が虚無的に振る舞いながらも腹中の鬼に翻弄される危うさをもった若者であり、無頼な生活を送りながらも隠密の務めを果たし家族に対しても情を持つという、アンビバレントなヒーローである点にあります。
「ひと月ほど前からでございましょうか。客がつく度に大騒ぎになりましてね」
「大騒ぎというと?」
「何でも客がおかしなことをしたとか、しないとか、とにかく大声を張りあげて、挙げ句に泣く、わめく、驚いてかけつけた小女を蹴飛ばす……」(『ひとだま 隠密絵師事件帖』P.161より)
誠之進は、旅籠大戸屋の旦那庄右衛門が呼び出されます。
下働きをしていて長屋にも出入りをして、誠之進に懐いていた小女のきわが遊女小鷸(こしぎ)となって客を取るようになっていましたが、ひと月前から狐憑きの噂が出て、「天狗がどうしたとか」言ってわけのわからないことを叫び、飯も食わなくなったと。庄右衛門は、誠之進に話を聞いてくれるように依頼されます。
ところが、その翌朝、大戸屋から小鷸の姿が消えました……。
ひとだま騒ぎの真相を追うかたわら、暗躍する天狗の正体、そして失踪した小鷸の行方を追っていきます。
本書は、万延元年ごろの品川宿を舞台にしていて、背景に歴史上の事件が描かれていき、幕末の有名人物も登場します。幕末の一こまを切り取り、歴史のダイナミズムが堪能できるエンターテイメント時代小説です。
◎書誌データ
『ひとだま 隠密絵師事件帖』
出版:集英社・集英社文庫
著者:池寒魚
カバーデザイン:高橋健二(テラエンジン)
装画:「幽霊図」河鍋暁斎画
Israel Goldman Collection, London所蔵
協力:立命館大学アート・リサーチセンター
第1刷:2018年7月25日
630円+税
311ページ
本書は文庫書き下ろし作品です。
●目次
第一話 ひとだま
第二話 辻斬り
第三話 道中三味線
第四話 円
解説 末國善己
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『隠密絵師事件帖』(池寒魚・集英社文庫)(第1作)
『ひとだま 隠密絵師事件帖』(池寒魚・集英社文庫)(第2作)