『横濱王』
小学館文庫から刊行された、永井紗耶子(ながいさやこ)さんの近代長編小説、『横濱王(よこはまおう)』を紹介します。
昭和十三年。青年実業家瀬田修司は、横濱一の大富豪から出資を得ようと原三渓について調べ始める。三渓は富岡製糸場のオーナーで、世界最高ランクの生糸を生産していた。関東大震災では横濱復興の先頭に立ち、私財を抛って被災者の救済にあたった。
茶の湯に通じ、三渓園を作り市民に無料開放。日本画の新進画家を育成……と、身辺を嗅ぎ回っても醜聞は見つからず、瀬田は苛立つ。やがて三渓と話を交わす機会を得た瀬田は少しずつ考えを変えていく。少年時代の瀬田には、三渓との忘れ得ぬ出来事があった。
本書は、横濱(横浜)に生まれて長じて青年実業家になった男・瀬田修司を主人公に、大正十二年(1923)九月から太平洋戦争終戦後までを描いた近代小説です。
船は、ゆっくりと海上を滑っていく。シュウは首を巡らせた。そしてその船首の先にある港の景色に目を見張る。
そこにあったのは、もうもうと煙を上げる街だった。
「まるで異国のお城みたい」
かつて、シズが夢見心地で言っていた県庁の塔が、煙の中で崩れているのが見えた。船が港に近づくほどに、煙の臭いは強くなる。そしてそれから目を逸らそうと下を見ると、海の上には人々の死体が浮かんでいるのが見えた。
(『横濱王』P.19より)
十三歳のシュウ(後の瀬田修司)は、八歳の妹と二人で、港町の小さな食堂の二階に居候をして、船の荷卸しをする沖仲仕の仕事で日銭を稼いでいました。
シュウが港で働いているときに、大きな地震が発生し、津波と火事が街を襲いました。シュウは異国の大きな客船に乗って沖の逃れて難を逃れることができました。しかし、食堂の手伝いをしていて街に残ったシズは……。
「この街のキングと言えば、誰だと思う」
山名は瀬田を試すような視線を向けた。瀬田は暫く黙り、その名を恐る恐る口にした。
「原……三渓ですか」
山名は黙って微笑んで見せる。
「そこから出資された会社ということになれば、こちらの対応も大きく変わる。変わらざるを得ない」
瀬田は絶句して山名を見てからキングの塔をにらむ。
(『横濱王』P.31より)
昭和十三年十月。大陸で商売をして青年実業家となった瀬田は、横濱に向かう船の中で、軍に伝手のある山名に、軍需物資を扱えるように取り計らってほしいと依頼します。ところが、瀬田を胡散臭く感じた山名は体よく断るために、原三渓から出資を引き出せればと条件を付けます。
原三渓は、横浜の三渓園に名を残す、当時の横濱で一番の大実業家でした。
岐阜生まれの一学者に過ぎなかった原富太郎(後の三渓)は、横濱で生糸貿易を手掛ける原善三郎の孫娘の婿になったことで、一躍実業家となりました。善三郎亡き後を継いだ三渓は、事業を拡大し国際企業にまで発展させます。
「それで、ここに何を聞きに来たんだい」
お蝶はそう言って、試すような視線を瀬田に向けた。瀬田は、ああ、と頷いてカランとグラスの中の氷を回す。
「原三渓のことを」
お蝶は暫く黙って瀬田を眺めてから、ははは、と高らかに笑った。
「お前さん、すっかり阿呆になったもんだね。こんなところにあの御大尽の話が転がっているものかい」(『横濱王』P.44より)
横濱に着いた瀬田は、チャブ屋外にある昔馴染みのお蝶のバーで、三渓の弱味を握って出資を引き出すために、三渓のことを苦々しく思っている商売敵を紹介してもらいます。
瀬田は、生糸商の男の後も、三渓に囲われていた地唄舞が得意な芸妓、三渓の屋敷で長年女中を勤めていた老女、三渓が手厚い支援をしていた画家の前田青邨、「電力王」と呼ばれる大物実業家の松永安左ヱ門ら、次々と話を聞いていきます。
視点を変えながらもいずれの話は、我々読者にとっては、三渓の実像を知るうえで興味深いものばかりでした。
本書の読みどころの一つは、瀬田が雑誌の記者と称して、三渓のことを知る人たちに会い、話を聞いていくシーンにあります。
質問の投げ方とそれに対する答え、取材対象者の感情の変化、過不足なく明らかになる取材内容など、新聞記者やフリーライターとして活躍されてきた著者ならではのものです。
そしてついに瀬田は、三渓本人に会うことができました。
「誰か一人を王として、その言いなりになることも、大勢が言うからと言って、そちらにただ無気力に流されるのも、いずれも同じこと。貴方の天命を果たすことはできますまい」
三渓はそこまで言うと、穏やかな表情で瀬田を見た。瀬田は何かを言い返したいと思いながらも、次の言葉が思いつかない。三渓はその瀬田を見たまま、微笑んで口を開く。
「他の誰でもなく、己の王でありなさい」(『横濱王』P.222より)
瀬田は、「ただ、胸の内に静かに問い、貴方は、貴方の為すべきことを為せばいい」と言われます。
本書では、原三渓の事績や人柄を紹介しているばかりでなく、瀬田という若者の目を通して三渓の実像を映すことで、そのスケールの大きさが伝わってきます。
また、瀬田に思いを寄せる歌手の波場絵里子や、元娼婦でバーのマダムお蝶という二人の魅力的な女性が登場することで、エンターテインメント性が盛り込まれて、物語の世界に引き込まれていきます。
はたして瀬田は、「己の王」になることができるのでしょうか?
歴史・時代小説のジャンルとしての最大の特徴は、過去を舞台にしていることである。では、どこまで時間を遡れば歴史・時代小説となるのか。諸説紛々であり、はっきりしたことはいえない。ただ個人的には、明確な指針がある。現時点より半世紀以上前であること。扱う時代の国や社会の在り方が、現在とはまったくちがっていること。この二点である。
(『横濱王』P.340 解説 細谷正充より)
戦前の横濱(昭和十三年)を主に描いている本書は、細谷さんの定義を援用すると歴史・時代小説であり、まさしく歴史・時代小説の手法で描かれています。
近いうちに時間を作って、横浜の三渓園を訪れてみたいと、読了後に強く思いました。
◎書誌データ
『横濱王』
出版:小学館・小学館文庫
著者:永井紗耶子
カバーデザイン:山田満明
カバーイラスト:いとう瞳
第1刷発行:2018年9月11日
650円+税
346ページ
2015年8月に小学館から刊行された同名の単行本に、加筆改稿して文庫化したもの
●目次
序
第一章 キングの塔
第二章 遠い面影
第三章 黄金の道
第四章 白い蓮花
終
解説 細谷正充
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『横濱王』(永井紗耶子・小学館文庫)