最期に立ち会った者だけが気付いた、政宗の秘密とは?
出版社エイチアンドアイから刊行された、岩井三四二(いわいみよじ)さんの長編歴史小説、『政宗の遺言』を紹介します。
類まれな智略・謀略・軍略で、豊臣秀吉・徳川家康の両巨頭に抗い続け、懸命に生き延びてきた“最後の戦国武将”伊達政宗は、寛永十三年(1636)四月二十日、伊達六十二万石の太守は“最後の暇乞い”のため齢七十の病身をおして江戸へ出発……。
著者の岩井さんは、『一所懸命』『清佑、ただいま在庄』をはじめとして、室町時代から戦国時代を舞台にした歴史時代小説を多数書かれています。
『あるじは秀吉』『家康の遠き道』など、戦国武将を題材に取り上げた作品も少なくありません。
本作では、三代将軍家光の治世まで生き抜いた、最後の戦国武将・伊達政宗にスポットを当てています。しかも、病魔に冒されて死を目前に控えた最後の五カ月あまりを描いています。
政宗は当年七十歳という高齢である。ここまで幾多の合戦をくぐり抜け、何度か重病にも見舞われたが、そのたびに回復して長寿を保ってきた。
しかし二年ほど前から食後に必ず吐き気をおぼえるようになり、江戸から国許へもどってきた昨秋あたりからは、体調の悪さをうかがわせる日も多くなっている。
(『政宗の遺言』P.8より)
病身の政宗に仕える、新参の小姓・瀬尾鉄五郎の眼を通して、物語は進んでいきます。
鉄五郎は、父が江戸屋敷詰めで江戸で生まれ育っています。十七歳で、一昨年に元服してのち江戸屋敷で奉公し、昨年六月に小姓となり、政宗の下国にともなって仙台へ来ていました。
父は伊達家中では下士にあたる組士に属し、仕事はおもに門や庭の警備ですが、それは表向きで本当の仕事は間諜、すなわち、黒脛巾組(くろはばきぐみ)と呼ばれる忍びでした。
鉄五郎も小姓とはいえ、黒脛巾組としてのはたらきをもとめられていました。
「そなたたち、もし父親が敵に捕らえられ、目前で連れさられようとしたら、いかがする」
近ごろいくさがなくなり、若い者たちの鍛錬の場がなくなっていると嘆いたあと、政宗はそんなことを言い出した。
(『政宗の遺言』P.15より)
政宗は、こんなふうに父・輝宗が二本松城主の畠山義継に拉致され、鷹狩りに出ていた政宗が家老衆より輝宗ともども義継に鉄砲で討つように進言されます。
十九歳の政宗は「父をこの手で殺せとは、とても命令できない」とためらいます。
「そうじゃ。みな聞きなされ。末期が近くなれば、遺言や辞世を残すものと聞く。わしには近ごろ気になる歌がある。これが辞世ともなろう」
そう言うと政宗は筆と紙をもってこさせ、その手でさらさらと書きつけると、小姓の次郎吉に渡した。
くもりなき心の月をさきだてて
浮世のやみをはれてこそゆけ(『政宗の遺言』P.36より)
最晩年の物語というと、いくさの場面がなく、何やら辛気臭く思われるかもしれません。
しかし、陸奥の大藩ということから改易を狙う幕府との水面下のせめぎ合い、後継者争いなど、「政宗の遺言」を巡り不穏な動きがあります。
政宗は挨拶を聞きつつ脇差の鯉口を切ると、小次郎の衿をとって引き寄せた。とっさのことで、小次郎はあらがう暇もない。驚きに目を見開くその顔をにらみつけた政宗は、
「汝、不憫のことなれど、恨むな」
と言って、抜いた脇差でひと息に小次郎の胸を刺した。(『政宗の遺言』P.157より)
政宗は、母お東の方(最上義光の妹。義姫、後の保春院)に毒殺されかけ、その直後に母が溺愛する弟・小次郎を殺したといわれています。
いくさに明け暮れ、秀吉や家康に命を懸けて抗い続けた、政宗の若き日の逸話は、かつて小姓を務めた老人・佐伯伊左衛門が、語り部として小姓たちに語って聞かせます。生き生きとした戦国武将としての生き様が描写されていきます。
智略、謀略、軍略に長けた陸奥の英雄は、いかに封じ、伊達家の基盤を盤石なものにするのか。
その死に臨む日々に寄り添った小姓・鉄五郎の見た、政宗のもののふ(荒ぶる大名)ぶり。そして、気づいた御家を揺るがすような政宗の秘密。
良質の歴史ミステリーとしても楽しめ、興趣が尽きないところです。
◎書誌データ
『政宗の遺言』
出版:エイチアンドアイ
著者:岩井三四二
装幀:幅雅臣
初版第1刷発行:2018年8月5日
1,800円+税
361ページ
月刊「武道」2016年4月号~2018年3月号に連載
●目次
第一章 不如帰の声
第二章 苦しむ馬
第三章 江戸の霧
第四章 見えない敵
第五章 遠ざかる戦国
第六章 将軍の深情け
第七章 殉死と語り部
第八章 最後の夜と朝
■Amazon.co.jp
『政宗の遺言』(岩井三四二・エイチアンドアイ)
『一所懸命』(岩井三四二・講談社文庫)
『清佑、ただいま在庄』(岩井三四二・集英社文庫)
『あるじは秀吉』(岩井三四二・PHP文芸文庫)
『家康の遠き道』(岩井三四二・光文社)
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